第百十話 密やかな旅路
暑い日が続いていますが、皆様も体調に気をつけてください。夏バテ厄介です。
夜の童庵に、鈍く鉄の車輪が響いた。
郭開の追手を避けるため、呂明は出発の時刻を月の出に合わせていた。闇に紛れ、ひとつの隊列が北門からひそやかに出ていく。
「北の市場へ、医薬と干肉を運ぶ定期の商隊と申しております」
門番に渡された文書を手に、検問役が頷いた。
背後の車に揺られているのは、いくつもの木箱と、その中にひとりの若者。
「……趙嘉さま。体勢を低く保ってください」
張が布をかぶせた上から静かに声をかけた。
呂明が振り返ることはない。ただ、商隊の先頭に立ち、沈黙の中に意志を貫いていた。
趙王宮――西殿。
「……趙嘉が姿を消した?」
悼倡后の顔に怒気が浮かぶ。
「呂明と繋がっていたようです。童庵に残された帳簿は焼かれ、数人の女童が自ら責任を被って拷問に耐えたとのこと」
郭開の声音は冷静だが、目の奥には不快がにじんでいた。
王が未だ昏睡のままの今、正太子の座を追われた趙嘉が密かに北へ逃れたとあれば、政の正統性に疑念が生まれる。
「……民の支持が、李牧や趙嘉の背後にあるのは事実。だがそれを武に託すことは許されぬ。正道は、我らが握っている」
悼倡后は静かに指を組み直し、郭開に目配せする。
「追わせなさい。ただし……殺してはならぬ。“王弟の失踪”として、悲劇に仕立て直します」
「承知」
夜、邯鄲を発つ馬がもう一頭。
呂明の屋敷を訪れていたひとりの童庵女が、秦へ向けて密かに早馬を放った。
秦国・咸陽宮。政庁。
「……趙、悼襄王危篤。趙嘉失踪。李牧、北へ退くとの布告」
報告書を読み上げた者の背後で、李斯が静かに目を伏せた。
「……呂明か。彼が趙の政変を我らに報せるとは」
「利害を計ってのことだろう」
嬴政は言い捨てるように言いながらも、手にした巻物をじっと見据えた。
宰相の耳元で李斯が囁く。
「童庵という商圏は、趙の王命にも民の信にも通じております。今、彼の“信”がどちらを向いているか……量る価値がございます」
「面白い男だ。……商いの顔をして、戦を見抜く」
政はそう言って立ち上がった。
一方、隊列を率いて北へ向かう呂明は、風に揺れる梢を見上げた。
「趙嘉さまは、ただ“逃げる”だけではない。これは、新たな“地”への道を拓く旅です」
そう言う張に、呂明は頷いた。
「李牧が“剣”ならば、趙嘉は“血”だ。国を繋ぐ“血”を守らねば、剣も立たぬ」
行き先は「代」。
いずれ童庵の支部が置かれ、戦の備えとなる地。
呂明は地図を開き、風を読むように瞳を細めた。
「“風”はまだ止んでいない。“信”の行く先は、俺が決める」
商隊の後ろで、野犬がひと声吠えた。
闇の中、商人たちが沈黙のまま進む旅路の先に――“代”の地が待っていた。




