第百九話 風に耐えて
趙北辺──匈奴と趙の境の地。
深い山に囲まれた砦に、男の影があった。
李牧。
邯鄲の誇り、百戦百勝の名将。
だが今、彼は逆賊の汚名を着せられ、追われる身となっている。
「……ここは、かつて匈奴と戦うための最前線だった場所ですね」
阿述が呟く。背後にはわずかに残った兵たちが、寒気のなか焚き火を囲んでいる。
「王命を受けた将が、戦に勝ち、民を守り……そして罰せられる。これが趙という国か」
李牧は答えなかった。ただ、山の風に揺れる木々を見上げていた。
――悼襄王の倒伏。
――郭開と悼倡后の詔偽造。
――幽繆王の擁立。
――そして「李牧を蟄居せよ」という新王の命。
すべては、風のように一夜で変わった。
「太子趙嘉は……どうなったのか……」
阿述が口にした疑問に、李牧は目を伏せる。
「……あの方は、おそらく邯鄲を離れた。我が戻らぬと知れば、無謀に出るはずもあるまい」
そう語りながら、李牧は“あえて趙嘉と行動を共にせず、自らが囮となる道を選んだ”ことを思い出していた。
(今、交われば“謀反”とされる。太子の未来まで潰すわけにはいかぬ)
風が唸る。
彼の纏う外套が、その風を裂いた。
「李牧様……このままでは、民が……趙が……」
「風に、耐える。逆風のときこそ、信が問われる」
李牧の言葉に、阿述は言葉を失った。
その背は、敗将ではなかった。
趙のために剣をとる“武”でもなく、
民のために黙して耐える、“仁”の姿だった。
──
一方そのころ──邯鄲郊外。童庵屋敷。
呂明は文机に向かい、一通の書を封じていた。
宛先には──「秦国・李斯」の名。
「……これが、商いの中立というものか」
そう呟きながら、巻物を渡した。
「風が、傾きかけております」
隣で張が不安げに口にした。
「いや、見ていろ。“信”という重しが、風を支えることもある」
呂明は立ち上がった。
彼の視線の先には、邯鄲の空──そして、その先にいる李牧の姿があった。
──
その頃、童庵の奥。
密かに匿われた趙嘉は、書物を手にしながら、静かに問いかけていた。
「李牧殿……あなたは、まだ……“戦うこと”を諦めておられぬのですね」
彼の声は誰にも届かない。
だが、胸の奥には確かな火が灯っていた。




