第百八話 裂かれし道
夜の童庵。月光が瓦屋根を照らし、張が手にした提灯の灯が、呂明の顔をぼんやりと浮かび上がらせていた。
「……趙嘉さま、こちらへ」
人目を避けるように、肩をすぼめて入ってきたのは、王子・趙嘉。顔に疲労と焦燥が刻まれている。
「呂明……なぜ、お前は私を匿う?」
問いかけに、呂明は静かに巻物を広げた。そこには、李牧の軍と補給線、そして郭開と悼倡后の影が交錯する場所が印されていた。
「あなたが逃げれば、“正義”が逃げたと囁かれる。残れば、命が消される。“裂かれた道”の中で、私はあなたにもう一つの道を示すためにここにいます」
趙嘉は目を伏せた。
「……父は、正道を忘れた。王印が偽造され、国が私を捨てたのだとすれば、私は、何を信じればいい?」
「信とは、義ではなく、理。命が続き、志が途切れなければ、“信”は立ち上がる」
呂明の声は静かだった。だが、確かに何かを背負う者の声だった。
「……北へ向かう。あなたを守れる民が、まだいるはずだ」
張が外の警戒を強める中、呂明は文を一通、手にした。
「李斯殿へ宛てた報です。悼襄王危篤、趙国内政変。私が趙嘉殿を“商人の判断”で保護したことも記してある。商いの理を通すには、中立こそが道――そう、秦王にも伝わるはずです」
「……秦へ伝えるのか」
「この国を生かすためには、すべての風向きを読む必要がある。今は、逆風の中だ。だが、“風”が吹いているうちは――」
「……前に進める、か」
趙嘉が、わずかに微笑を見せた。その目に、滅びの色はまだなかった。
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邯鄲・王宮。悼襄王の寝所。
幽繆が、宦官に手を引かれ、太子としての衣を身にまとっていた。王印を手にした悼倡后と郭開が、その様子を満足げに見つめる。
「民は“印”を見る。“誰が正しいか”ではなく、“誰が印を持つか”で動くのだ」
郭開が囁く。
その陰で、邯鄲を出る黒い影があった。数騎の馬。荷駄。細道を抜け、北へ向かっていた。
誰も、まだその行く末を知らない。だが、歴史が裂ける音だけが、確かに夜風に混じっていた。




