第百六話 王の器
趙・邯鄲。王宮、北殿。
夕刻の光が、金飾の扉を赤く染める。献上の香がかすかに揺れ、静謐の中に、気怠さと緊張が同居していた。
「……呂明とか申したな。よくぞ我が呼び出しに応じたな。」
玉座の上から、悼襄王が低く問いかける。
「はっ。童庵と西涼の一部を取りまとめております」
呂明は深く頭を垂れた。周囲には、悼倡后と郭開が控えている。
「童庵。民が群れをなし、商いを司り、軍と結び、軍政すら変える。その元締めと申すか」
王は扇を片手に、じっと呂明を見下ろす。
「民を使い、国の形を変えようとする者は、官であれ民であれ、厄介な存在だ」
郭開が静かに口角を吊り上げる。悼倡后は笑わず、ただ呂明を値踏みするように見つめる。
「私はただ……民が飢えず、血を流さぬよう、商いの道を通したまでです」
「道? お前は“道”を通すために、民を使っているのか?」
悼襄王の声音に、かすかな苛立ちが滲む。
「違います。信を通すために、道を拓いております」
呂明の声は揺れなかった。王がわずかに身を乗り出した。
「……その瞳。若き嬴政と似ておる。わしは、あの男が嫌いだ」
静まり返る室内。王の瞳に、一瞬、かつての記憶がよぎった。張唐を従え、邯鄲を去った少年――あの光のような瞳。己にないものを、まばゆく放つ男。
「李牧も同じだ。眩しすぎる男だ。なれば、そなたも……嫌いだ。だが、趙を、我を儲けさせてくれるのであれば話は別だ。李牧はどれほど払ったか。正義のためと言って値切らなかったか?」
呂明は返さなかった。ただ、黙して一礼する。
そのとき――
「下がれ、呂明」
郭開が、あくまで柔らかく声をかけた。
呂明が退室しかけた刹那、扉が開く。
「お待ちください! 王よ、これは正さねばなりません!」
現れたのは趙嘉。顔を紅潮させ、目を見開いている。
「郭開――郭開が、李牧将軍の補給を故意に妨げております!」
室内に一瞬、冷気が走る。
「李牧将軍は、趙を守る盾です。その盾に、毒を盛るなど……許されません!王よ、あなたは――我らを見捨てるおつもりか!」
「黙れ!」
王の声が叩きつけられる。呂明の眉が僅かに動いた。
「李牧、李牧、李牧……お前らはそればかりだ!」
悼襄王は立ち上がり、額の汗を拭うこともせず、趙嘉に指を突きつける。
「我こそ王だ。誰が太子になろうと、誰が勝とうと、わしが決める。正しいかどうかなど、知ったことか!」
「王よ、正道を踏み外しては……!」
「うるさい……。李牧も、嬴政も、皆正道を歩めと言う。民の声に押され、兄を失い、后の一言で玉座を得た。だが、得た王位に、玉座に、力はついてこなかった……。正道など、正論など……!」
悼襄王はその場でふらついた。
「王……!?」
郭開が駆け寄ると同時に、悼襄王は苦しげに胸を押さえ、そのまま倒れ込んだ。
玉座の間に、衝撃が走る。
「医師を呼べ! すぐに!」
悼倡后の叫びが響く。
王が倒れた混乱の中、郭開が呂明を促すように目配せし、侍臣が「呂明殿、ここは……」と静かに退席を促す。呂明は、最後に一瞥だけ王の姿を見て、黙して立ち去った。
⸻
翌日。王の寝所。御簾の奥には、意識の戻らぬ悼襄王。
郭開と悼倡后が、密かに言葉を交わしていた。
「……このままでは、趙嘉が太子となりましょう。李牧の後ろ盾により」
「それは困る。あの者の後ろには、民の目がある……幽繆さまこそ、私たちの望み」
悼倡后が静かに筆を取り、巻物を広げる。
「……王命により、幽繆を太子とする」
「印は?」
「王印は、昨夜、私が……」
筆が走る。郭開がにやりと笑った。
「これで、よい」
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同刻、呂明は童庵の屋敷に戻っていた。張が小走りに駆け寄る。
「呂主。王が倒れ、趙嘉殿の姿が見えぬとのことです。何か、動きがあります」
呂明は答えず、巻物の地図を広げ、補給線を示す印を静かに見つめていた。
「……李牧の道は、閉ざされようとしている。“風”が、止まりかけているな」
呂明の目に、わずかな怒りと哀しみが宿る。
「――だからこそ、見極めねばならぬ。“信”が消えぬ道を」
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