第百五話 勝者の影
肥下。冷たい風が黄土の上を這うように吹き抜け、戦の火種を残しながら散っていく。
李牧の軍は、秦の主力を迎撃し、勝利を収めた。だが、勝鬨の声は上がらぬ。戦場に立つ者すべてが、勝利の味に何かが混じっていることに気づいていた。
「――味方の被害、三割を超えました」
阿述が低く報告する。彼の兜も割れ、頬には擦過の傷が残っている。
「斬ったのは、趙の敵か。民の子か」
李牧は問いかけたわけではなかった。ただ、自らに噛みしめるように呟いた。
阿述は答えなかった。ただ、握りしめた拳をわずかに震わせた。
そのとき、伝令が駆けてきた。
「将軍! 邯鄲より急報――補給路の掌握を、郭開殿の指示により、軍監が一部変更されたとのこと!」
李牧の眉が、かすかに動いた。
「……戦の只中に、兵站を変えるか」
「はっ。理由は“過剰供給の是正”と」
李牧は沈黙したまま、遠くを見つめていた。
敵は、外にあらず。
戦場の外で、密やかに牙を研いでいた者の影が、李牧の背を撫でていた。
その夜、軍営には粥が配られた。
だが、それは勝利の膳ではなかった。
飢えを凌ぐための、敗北者の飯であるかのように、兵たちは静かに箸を運んだ。
一方、邯鄲。
郭開は帳面を閉じ、冷酒を一杯口に含んだ。
「勝ったか。だが、“英雄”にはなれぬ。……これで、よい」
その言葉は、誰に語ったものでもない。ただ、闇に沈む帳の中に、満足げに響いた。
すぐ近くに、火の消えた蝋燭が転がっていた。
そして、秦国・咸陽。
政は静かに地図を眺め、李斯が戦後の報告を読み上げる。
「肥下、敗北です。だが、趙の損耗も甚大。李牧の名声も、伸び悩んでおります」
「ならば――よい。まだ“英雄”にはなっていない。郭開の鼻は利いているな」
政は冷笑を浮かべ、指で李牧の名の上に小さな黒い石を置いた。
「次の布石も、“内”でよかろう」
そして、童庵。
呂明は張からの報告を聞き、沈思する。
「李牧の勝利は……なぜ、祝われない?」
呂明の問いに、張は答えに窮した。
「勝ったが、……笑っておりません」
「それが、“風”というものだ」
呂明は静かに立ち上がり、巻物を取り出した。
そこには、李牧の補給経路と、郭開の影が交錯する場所が記されていた。
「逆風は続く。だが、風が吹く限り――次の一手がある」
その夜、童庵の灯火の下、呂明の瞳は闇を射抜くように光っていた。




