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神商天秤 〜黄金の秤を継ぐ者〜  作者: エピファネス
第七章 風信難報編
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第百四話 風信難報

 肥下の地に、風が吹いていた。


 雪解けを運ぶ南風は、まだ冷たい。だが、それでも、春の気配を纏っていた。


 その中を、李牧の軍が進んでいた。


 土を踏みしめ、兵たちは寡黙に行軍を続けている。彼らの目に疲労の色はあったが、それ以上に、静かな決意があった。


 補給の遅延は続いていた。


 ときに数日の遅れ、ときに俵の数が不足。しかも、それらはすべて、出発地――邯鄲近郊で起きていた。


「……意図的か?」


 阿述の問いに、李牧は答えなかった。


 代わりに、帳簿をめくる手を止め、ふと天を仰ぐ。


 高く、広い空だった。


「馬を三割、後方に退かせ。予備兵糧の配分を改めろ。今のうちに、地元の農民とも連絡を取れ」


 指示は淡々と、だが迅速だった。


「敵は、こちらの動揺を待っている。ならば、我らが動じねばよい」


 それが李牧の答えだった。



 一方、郭開の邸。


 帳の奥、静かに一人、書状を見つめていた。


 それは、秦からの密書。


 何の装飾もない、ただ一枚の羊皮紙に、短く書かれていた。


――手筈通り、補給に綻びを。あとは、時を待て。


「……見えてきたな。英雄の落ちる道筋が」


 郭開は杯を口に運び、ゆっくりと目を閉じた。


「勝たせねばいい。それだけで、すべてが変わるのだ」



 秦・咸陽。


「――小人が、ようやく動いたか」


 政が、文を握りながら呟いた。


「だが李牧は、簡単には倒れまい」


「ええ。あの男は、将としても、策士としても一級です」


 李斯が応じる。


「ですが……その戦の中に、疑念という“毒”が混じるならば、どれほどの兵も、軍も、崩れましょう」


「信が通らぬ道に、勝利はない」


 政は立ち上がり、窓の外を見た。


 春は、まだ遠い。


「李牧には、“味方”を減らさせることだ」



 同じころ、呂明は一通の報告書を手にしていた。


 張が、慎重に口を開く。


「補給遅延の件、邯鄲周辺で手配された馬車の多くが、郭開と近い商家から出ております。偶然とは考えづらい」


 呂明は黙って報告書に目を通し、やがて軽く鼻を鳴らした。


「なるほど。“信”が通った道の先に、また別の風が吹いたか」


 手元の香炉から、かすかに煙が立ちのぼる。


「だが、“信”は感情ではない。義ではなく、理だ。通した以上は、守らねばならぬ。私には私のやり方がある」


 張が息を呑む。


「お動きになりますか?」


「……まだだ」


 呂明は、窓を見た。


 空は澄んでいる。だが、その向こうには、何かが蠢いていた。


「信に逆らう風があるなら、私はその“風”の正体を見極める。商いは、見通すことから始まる」



 肥下の野営地。


 兵の一人が、粥の俵を掲げた。


「将軍、村人より献上されました!」


 李牧が振り返ると、農民たちが、泥にまみれた足で、俵を運び込んでいた。


 無言のまま、何人も、何度も。


 その姿を、李牧は黙って見つめた。


「……風は、まだ吹いている」


 呟いたその声に、阿述が目を見開く。


「たとえ、妨げる者がいようと、信は途切れてはいない――そういうことですね」


「いや」


 李牧は首を振った。


「信は、風だ。追い風にも、逆風にもなる。だが、風がある限り、道は動く」


 彼の目は、南を向いていた。


 まだ遠く、まだ見えぬ秦軍の陣――その向こうにある、戦いの未来を。


数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。


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