第百四話 風信難報
肥下の地に、風が吹いていた。
雪解けを運ぶ南風は、まだ冷たい。だが、それでも、春の気配を纏っていた。
その中を、李牧の軍が進んでいた。
土を踏みしめ、兵たちは寡黙に行軍を続けている。彼らの目に疲労の色はあったが、それ以上に、静かな決意があった。
補給の遅延は続いていた。
ときに数日の遅れ、ときに俵の数が不足。しかも、それらはすべて、出発地――邯鄲近郊で起きていた。
「……意図的か?」
阿述の問いに、李牧は答えなかった。
代わりに、帳簿をめくる手を止め、ふと天を仰ぐ。
高く、広い空だった。
「馬を三割、後方に退かせ。予備兵糧の配分を改めろ。今のうちに、地元の農民とも連絡を取れ」
指示は淡々と、だが迅速だった。
「敵は、こちらの動揺を待っている。ならば、我らが動じねばよい」
それが李牧の答えだった。
*
一方、郭開の邸。
帳の奥、静かに一人、書状を見つめていた。
それは、秦からの密書。
何の装飾もない、ただ一枚の羊皮紙に、短く書かれていた。
――手筈通り、補給に綻びを。あとは、時を待て。
「……見えてきたな。英雄の落ちる道筋が」
郭開は杯を口に運び、ゆっくりと目を閉じた。
「勝たせねばいい。それだけで、すべてが変わるのだ」
*
秦・咸陽。
「――小人が、ようやく動いたか」
政が、文を握りながら呟いた。
「だが李牧は、簡単には倒れまい」
「ええ。あの男は、将としても、策士としても一級です」
李斯が応じる。
「ですが……その戦の中に、疑念という“毒”が混じるならば、どれほどの兵も、軍も、崩れましょう」
「信が通らぬ道に、勝利はない」
政は立ち上がり、窓の外を見た。
春は、まだ遠い。
「李牧には、“味方”を減らさせることだ」
*
同じころ、呂明は一通の報告書を手にしていた。
張が、慎重に口を開く。
「補給遅延の件、邯鄲周辺で手配された馬車の多くが、郭開と近い商家から出ております。偶然とは考えづらい」
呂明は黙って報告書に目を通し、やがて軽く鼻を鳴らした。
「なるほど。“信”が通った道の先に、また別の風が吹いたか」
手元の香炉から、かすかに煙が立ちのぼる。
「だが、“信”は感情ではない。義ではなく、理だ。通した以上は、守らねばならぬ。私には私のやり方がある」
張が息を呑む。
「お動きになりますか?」
「……まだだ」
呂明は、窓を見た。
空は澄んでいる。だが、その向こうには、何かが蠢いていた。
「信に逆らう風があるなら、私はその“風”の正体を見極める。商いは、見通すことから始まる」
*
肥下の野営地。
兵の一人が、粥の俵を掲げた。
「将軍、村人より献上されました!」
李牧が振り返ると、農民たちが、泥にまみれた足で、俵を運び込んでいた。
無言のまま、何人も、何度も。
その姿を、李牧は黙って見つめた。
「……風は、まだ吹いている」
呟いたその声に、阿述が目を見開く。
「たとえ、妨げる者がいようと、信は途切れてはいない――そういうことですね」
「いや」
李牧は首を振った。
「信は、風だ。追い風にも、逆風にもなる。だが、風がある限り、道は動く」
彼の目は、南を向いていた。
まだ遠く、まだ見えぬ秦軍の陣――その向こうにある、戦いの未来を。
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