第百三話 小人の道
邯鄲・郭府。
薄暗い書斎に、香が静かに焚かれていた。
郭開は帳面をめくりながら、文の封を切る。手元の火皿で蝋封を溶かし、羊皮紙を広げる。
その文は、秦の咸陽から届いたものだった。
――李牧、次戦は肥下。
――貴殿の働きに、我が国は報いよう。
短く、それだけだった。だが、郭開の口元には、薄く笑みが浮かんでいた。
「……敵の敵は、味方というわけだ」
李牧の軍が肥下に向けて進発したのは数日前。趙王の名のもとに進軍してはいるが、実質、軍権を握るのは李牧その人である。
もはや、王も、郭も、李牧を止められぬ。
「勝てば、李牧は“英雄”になる……それだけは、避けねばならぬ」
机に広げた地図に、墨で一点を示す。肥下。秦軍と趙軍が激突する、次なる戦場。
「勝たせぬ。それが、すべてだ」
一方、咸陽・秦宮。
宦官が文を差し出し、政が目を通す。
「郭開より密書。『李牧、まもなく肥下に至る』と」
政は静かに頷いた。
「趙の王に忠を尽くす者ではない……が、使いようはある」
李斯が控えから進み出る。
「郭開。確か、かの呂不韋と一度は通じたとも聞いております。権勢の匂いを嗅ぎ分ける鼻は確かにございますな」
「だが、信用はならぬ」
「ええ。あくまで“使いよう”として」
政は短く笑い、地図上の肥下を指さす。
「李牧を葬るに、剣は要らぬ。小人が一人いれば、事足りる」
肥下の野。
李牧の軍が到着し、陣を敷いていた。風が吹き抜ける平原。春の兆しとともに、南の空に緊張が漂っていた。
阿述が報告に来る。
「敵の動き、未だなし。だが……」
「だが?」
「……我らの補給線が、いくつか不自然な遅延を起こしています。出発地は、邯鄲周辺」
李牧の眉が、僅かに動いた。
「……小人が、動き出したか」
彼は空を仰ぐ。青空は澄んでいたが、どこかに、不穏な影がある気がした。
鄴。
呂明は、西涼から戻った張の報告を受けていた。卓の町で受け取った礼金の一部は、既に童庵へと還元されている。
「報酬の件、全て処理済みです。現地は呂様に深く感謝しております」
「礼ではない。対価だ。……信が道を繋ぐならば、それを維持する現実の力も、忘れてはならぬ」
張は黙って頷く。
「だが、その“道”を壊そうとする者もいる。李牧将軍の周辺に……“風”の逆流が始まっている」
呂明は立ち上がり、遠くを見やった。
「李牧は、風を南へ運ぶ男だ。だが、その背に吹く風が、毒を含んでいるならば――」
その言葉は、誰に向けたものか分からなかった。
だが確かに、風の向こうに、新たな争いの匂いが混ざり始めていた。




