第百二話 南征の旗
邯鄲──。
宮中では、華やかな酒宴の後、戦勝の報告を受けた趙王が重臣らを前に、静かに口を開いた。
「李牧。北を守った今、次は南だ。秦が肥下に軍を集めている……お前の手で、討て」
李牧は静かに膝を折り、頭を垂れる。
「御意」
その声に、熱はなかった。
側に控えていた郭開が、皮肉な笑みを浮かべる。
「将軍。北での戦功は見事でしたが……軍を動かすのは王命一つで十分です。口は慎まれたほうがよろしいかと」
李牧は顔を上げなかった。ただ、一礼し、そのまま下がる。
郭開はすぐに王の傍へ進み出て、囁いた。
「陛下、李牧の声望は日増しに高まっております。このままでは……やがて王威をも脅かすやもしれません」
趙王は杯を傾けながら、じっと沈黙していた。その視線の先には、李牧の背が小さく遠ざかっていた。
*
一方、鄴。
冬晴れの空の下、呂明は屋敷の庭先で地図を広げていた。阿述が報告書を手にして戻ってくる。
「西涼から、使者が参っております。礼金と、感状を携えて──『末代までの恩を忘れぬ』と」
呂明は頷き、報告書に目を通す。
「ありがたく受け取ろう。だが、それは“礼”ではない。“対価”だ」
阿述は目を丸くした。
「……対価、ですか?」
呂明は筆を置いて立ち上がると、俯きながら言った。
「“信”で道を通すならば、それを守る現実も必要だ。義に殉じるだけでは、世は動かぬ」
呂明は空を見上げた。南へ、雲が流れていた。
「さあ、次は南だ。西涼の恩義を背に、雁門を越えた風が、肥下へ届くか試す時だ」
李牧の軍──。
すでに南への進軍が始まっていた。かつて飢餓に喘いだ兵たちが、今は肩を並べ、槍を立てて行軍を続けている。
阿述が馬を走らせ、李牧の元に並んだ。
「前線は肥下。敵は、秦軍二万」
「こちらは一万強……だが、地を知り、策を練る時間がある。問題は、それを使いこなす器よ」
李牧は微笑み、前を見据えた。
「肥下。この戦こそ、趙の命運を決める」
その視線は、はるか地平の先を射抜いていた。
邯鄲に戻った郭開は、ひそやかにある人物を呼び出していた。
「肥下で李牧が勝てば、もはや誰も彼を止められぬ。……ならば、勝たせぬことだ」
男の背に、蛇のような笑みを浮かべる郭開。
「策はある。次は、戦場ではなく──政の場で刃を振るう時だ」
風は、南へ吹いていた。
それは命を繋ぐ風であり、また新たな争いの予兆を孕んだ、逆巻く予感の風でもあった。
数ある作品の中から今話も閲覧してくださり、ありがとうございました。
気が向きましたらブックマークやイイネをお願いします。
また気に入ってくださいましたら評価★★★★★を宜しくお願い致します。
執筆のモチベーションが大いに高まります!




