第百一話 風、北を払う
雪解けの風が、雁門の城壁をなでていた。
かつて黒煙が立ちのぼり、叫びと血で染まったこの地に、いまは静けさが戻っていた。
破れた城門を修繕する兵たちの動きは、まだ重い。だが、彼らの背に漂うのは敗北の疲労ではない。戦い抜いた者だけが持つ、誇りの匂いだった。
丘の上から、それを見下ろす一人の男。李牧である。
その横で、阿述がひと息ついた。
「騎馬民族は、完全に退けました。再びこの地を越えることはないでしょう」
「……よく守った。だが、守っただけでは終わらぬ。これは“始まり”だ」
李牧の声は低く、風に溶けていった。
阿述は、ふと空を見上げる。
「兵糧が届いた日のこと、覚えています。あれがなければ、今ごろこの城は……」
「兵は飢えていた。だが、あの一俵が全てを変えた」
李牧はわずかに目を閉じ、深く息を吐いた。あの風の重さと、命の匂いが今も胸に残っているようだった。
「あの男の“信”が、兵の命を繋いだ。そして、我らの未来も」
沈黙ののち、李牧は地図を広げた。
「次は――南だ。秦が兵を集めているのは、肥下だろう」
阿述の表情が引き締まる。
「北の脅威が去った今、我らが動けば、秦の背を討つことも可能です」
「そうだ。今こそ刃を返す。北風は払った。次は、我らが風となり、南へ吹きつける」
李牧は地図の上に、指を置いた。
「肥下。この戦こそ、趙の命運を決める」
その頃、邯鄲。
王宮では戦勝の報が届き、臣たちが歓喜に沸いていた。
「李牧将軍、北を制圧!」
「まさに“国士無双”!」
だが、その熱狂の裏で、ひとりの官吏がつぶやく。
「……李牧の勢いが強すぎる。やがて、王威をも揺るがすのでは」
その声は、誰にも届かぬように消えていった。
趙王は、報告の巻物を手に、じっと黙していた。
「肥下では、秦が動いているのか?」
「はい。かなりの数の兵が集結しつつあります」
「李牧に告げよ。北を制した今、次は肥下だ――とな」
そう語る趙王の眼差しは、どこか不穏な影を宿していた。
再び、雁門の丘。
夕日が李牧の背を紅く染める。
「呂明よ、汝の信、確かに届いた。今こそ、それに報いよう」
李牧は小さく呟き、振り返ると、整列した兵たちの前に立った。
「南へ向かう。風はすでに、我らの背を押している」
谷を抜け、風が吹いた。
それは春の匂い。命を奪う風ではなく、命を繋ぐための風だった。
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