第九十九話 火種は、まだ消えず
咸陽の朝は、冷えていた。
玉座の間に走る緊迫は、冬の空気よりも凍てついている。
「……なんだと?」
王綰が、書状を握りしめたまま、眉を吊り上げる。
「西涼に、兵糧が――届いた、だと?」
漢中、洛陽、いずれも差し止めに成功したはず。咸陽中枢の情報統制は完璧だった。にもかかわらず――西涼の駐屯地には、十分すぎる兵糧が流れ込んでいた。
報告の裏付けは、複数の斥候から同時にもたらされた。驚きと同時に、驚愕と困惑が咸陽の各所を駆け巡る。
廷臣たちはざわめき、誰もが口をつぐんだ。
最初に声を上げたのは、若手の官吏だった。
「まさか、呂明……あの男の仕業では?」
「いや、間違いないだろう。あれは、呂不韋の血を引いている」
「単なる商人ではない。あの才覚、まさしくかつての“丞相”を思わせる」
次々と上がる声。
賞賛と羨望が混じる中、王綰は黙して立ち尽くしたまま、目を細める。
――呂不韋の血。
その名が、久しく禁忌のように扱われていたはずの咸陽で、再び口にされた。
「くだらん」
王綰は低く吐き捨てた。
「商人風情が何をしようと、それは管子の影なくしては成せぬこと。所詮、旧呂派の残り火よ」
「だが、火はまだ消えていなかったのでは?」と、側にいた臣が呟く。
「今、この秦の中央に、“もう一つの流れ”が芽吹きつつあるのかもしれません」
王綰は返事をせず、ただ静かに背を向けた。仮面をつけずに動き始めた“旧き者たち”。そして、それを再び活性化させる呂明という存在。
その名が、次第に中枢にまで届く。
時を同じくして、韓の地でも、報が届く。
張良は細く目を細めた。
「……なるほど。なるほどね。あれを通したのか。まさか、あのルートを」
名は出さない。だが察する。
張良は一枚の札を手にとった。紅と白が交わる呂明の商標。その札が、韓にも静かに流通を始めていた。
「やはり君は……ただの商人ではないな」
咸陽の一角、夜の帳が下りた屋敷。
薄灯の下、管子は茶を口にしながら、来客の報告を聞いていた。
「呂明の動きに、驚きの声が上がっております」
家臣が言うと、管子はふっと笑った。
「誰もが“表”を見たがるものだ。だが、あの子は――裏の布を、誰よりも柔らかく、そして遠くへ広げる」
「再び、“呂”の名が、咸陽に」
「ふさわしい器があれば、名など勝手についてくる」
管子は杯を伏せた。
その指先は、かすかに震えていた。怒りでも、興奮でもない。ただ、何かが確実に、遠くで動き出した予感。
「……火はまだ、消えていない。ならば、風を送るまでだ」
そして、遠く鄴の城。
報を受けた呂明は、文を握りしめ、ただ一言つぶやいた。
「次は、届ける番だ。命と、信を」
夜風が吹き抜けた。
その風は、かつて呂不韋が築こうとした“もうひとつの秦”を、再び揺らし始めていた。




