第九十八話 届かぬはずの兵糧
西涼の山稜を越える風は鋭く、空気はぴんと張り詰めていた。
岩肌の下、かつての砦跡を拠点とした仮設陣に、兵たちの怒号が飛び交っている。
――届くはずのない兵糧が、届いた。
袋に詰められた粟と塩、干し肉、干し菜――いずれも秦で一般的に流通している印のある物資だった。だが、それがどこをどう通ったのか、誰一人説明できなかった。
「……漢中の商団は、途中で官憲に差し止められたはずだ」
咸陽からの報告を手にした王綰は、冷ややかな声を漏らす。
「洛陽の経由品も、途中で検問を通過できずに足止めされたと聞いている」
管子のもとにも、同様の報が届いていた。洛陽の私邸で文を読み終えた彼は、ふ、と仮面の下で笑った。
「なるほど……彼は“あの道”を使ったか」
それ以上は何も言わなかった。ただ、脇に控えていた部下に一言だけ告げる。
「“針の穴”は、刺せば血が出る。塞ぐには、かなりの手間がいる。咸陽は――焦れるだろうな」
その頃、韓の都・新鄭でも、密かな波紋が広がっていた。
張良は手元の書簡を読み終え、静かに目を伏せる。
「……あえて、伏せていたというのか。呂明殿」
手紙には一切、具体的な輸送経路の記述はなかった。ただ、「あらかじめ仕掛けた路がある」とだけ綴られていた。
だが、韓の地理と呂明の足跡を知る張良には、薄くその輪郭が見え始めていた。
いったいどこから運んだのか。誰の手を借りて――。
西涼で歓声を上げる兵たちとは裏腹に、咸陽の朝廷では、激震が走っていた。
「抜け道など、あの地にあったか……?」
王綰は玉座の間で、険しい顔をして地図を睨みつけていた。
官吏たちは言葉を失い、誰も正確な経路を報告できない。
ただ一つ、確かなのは――
兵糧は届いた。間違いなく、西涼の守備兵たちのもとに。
そして、その知らせは、鄴の呂明のもとにも届いていた。
「無事に届いたようです」
家臣の報に、呂明は静かに頷いた。
手元には一通の封筒。未開封のまま、机に置かれている。
「まだ開けるな。それは“後”のためにある」
呂明は窓の外、遠く霞む西の空を見やった。
誰も知らぬもう一つの道――それこそが、本命だった。
だが、その真実が明かされるのは、まだ少し先のことである。
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