第九十七話 砂上の道
漢中――。
春の名残がかすかに残る街路を、重々しい荷車の列が進んでいた。
黄土色の幌に覆われた荷は、どれもこれも兵糧。乾燥した麦、粟、干し肉、塩、そして油。民の命を支える糧が、数百の荷駄に積まれていた。
その先頭を歩く男は、張だった。
白髪混じりの髷に、実直な目元。かつて呂明の祖父に仕え、今は呂家の家宰として漢中を預かる男。
その歩に迷いはなく、だが心には、重みがあった。
(堂々と、兵糧を運べ……それが、あのお方の意図)
呂明から届いた文は、簡素なものであった。
兵糧を西涼へ送れ。陽動にせよ何にせよ、一切は語られていなかったが、張には理解できた。
(本命ではない……ゆえに、目立て。目立ち、騒ぎ、秦の目を引け――)
張は口を引き結び、荷車を見やった。
堂々と兵を配し、旗を掲げ、経路も隠さぬ。官道を外れず、敢えて人目のつく宿場で休む。
まさに、見せつける行軍だった。
「張殿、前方に秦の関がございます。通告は?」
従者の報に、張は静かに頷いた。
「書状は出してある。通れぬはずがない」
声には自信があるが、その裏には、張なりの覚悟があった。
(いざとなれば、ここで斬られる覚悟もしてある……)
商隊は緩やかな坂を下り、関所へと近づいていった。
秦兵が数人、関門の前に並ぶ。その背後にあるのは、鉄で囲われた帳幕と、監視台――物々しい警戒だった。
張が馬を降り、書状を差し出す。秦兵がそれを受け取り、奥の将に渡す。
数刻の沈黙。
その間、風が砂を運び、頬に吹き付ける。
張は表情を動かさず、ただ静かに、空を見ていた。
(この風の向こうに、西涼がある。李牧がいる。呂明様の道が――)
「通れ」
秦の将が短く言った。
兵糧商隊が、再び動き出す。
その背には、秦兵の視線が突き刺さるように注がれていた。
⸻
一方、関所近くの崖上。
数人の騎馬が、荷車の列を見下ろしていた。
「随分と目立つ動きだな……まるで見せ物だ」
若い監察官が鼻で笑う。
その隣にいた、年嵩の者が目を細めた。
「この時期に、西涼へ兵糧……不自然だ。何かある」
「囮じゃないか? 見せかけだけの」
「だとしても、無視はできまい」
監察官は口元を歪めた。
「斥候を三手。道筋を追わせろ。もし“裏”があるなら、それを炙り出す」
その夜、張は焚き火を囲んでいた。
兵たちは粥を啜り、荷車の側でまどろんでいる。
張は火を見つめたまま、ふと懐から文を取り出した。
もう何度読んだかわからない、呂明からの文。
そこに記されていたのは、ただ一言。
《届けよ。命を。明日を。》
(……お若い。あのお方は、若く、そして真っ直ぐすぎる。だが――)
「それでこそ、道となる」
張は火に文をかざすと、そっと焚べた。
炎が文を飲み込み、文字は灰に変わる。
空を見上げると、東の空に、小さな狼煙が上がっていた。
「……動いたか。さて――どう出る」
張はゆっくりと立ち上がった。
その背に、砂漠の風が吹きつけていた。
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