第九十六話 迎える地
風が鳴っていた。
山脈の稜線を越えて吹き下ろす風は、まるで針のように肌を刺す。
西涼――地図の端に記されたその地は、ただ「遠い」というだけではなかった。
寒い。高い。痩せている。何より、秦の目からすら外れた、忘れられた辺境。
「……ここが、“希望”の地かよ」
伏明は馬上で呟いた。乾いた唇が、ようやく滲んだ血で濡れていた。
道なき道を抜け、谷を越え、峠を登って下りて……ようやく、眼下に集落の灯りが見えた。
その入り口に、一人の男が立っていた。黒髪を後ろで束ね、眼光は氷のように鋭い。
だが、阿述を認めた瞬間、その目がわずかに和らいだ。
「よく来たな。童庵の坊やと、もう一人は……ふむ、目が死んでないな。いい」
その声に、阿述が思わず駆け寄った。
「ナイガル様!」
西涼の副将、かつて呂明の窮地を救った異民族の戦士。
その存在が、疲れ切った一行に温もりをもたらした。
「……入れ。だが喜ぶのは早い。今の西涼は、迎え火すら焚けぬほど、冷え込んでいる」
ナイガルの言葉は、冬の風よりも冷たかった。
* * *
集落の中心にある、かつては武将の屯所だったという建物の中。
暖炉には薪がくべられていたが、そこから立つ炎は弱々しい。
「兵糧が底をつきかけている。秦が北に動かぬのは、我々を飢えで潰すためだ」
ナイガルが地図を広げる。兵站線は既に寸断され、残された補給はあと十日分。
援軍は望めず、内地との連絡も途絶えがち。
「……だが、呂明様が、必ず兵糧を届けてくださる」
阿述が震える声で言った。
「ふん、童庵の理想家らしいな」
ナイガルは笑う。だがそれは、軽蔑でも失笑でもなかった。
その声には、どこか懐かしむような響きがあった。
「お前のその目……あいつに似てきた」
「呂明様に、ですか?」
「いや。あいつの“信じた未来”に、だ」
そう言ったとき、扉の外から声がした。
「文が届きました。洛陽からの使いが、西涼に入ったとのことです」
文――それは、呂明からの書状だった。
厚い封を破ると、中からは短い言葉と符が一枚。
「風は、北より来たりて、三たび巡る。最後に残るは、光の道。」
伏明が眉をしかめる。
「……暗号だな」
阿述は符をじっと見つめた。
「“三たび”……三つの道。つまり……」
「待て」
伏明が遮る。
「答えを急ぐな。信じるとは、解くことではない。“動くこと”だ」
ナイガルが言った。
「いい目をしてるな、お前。名前は?」
「伏明です」
「伏して明かす、か……皮肉な名だ」
火がぱち、と弾けた。
「奴らは動いている。呂明も、あの都で牙を剥く蛇どもを相手に、策を弄している。
なら我々も、ここで道を開けなければならぬ」
「開く……道を、ですか?」
阿述が問い返すと、ナイガルは一歩、阿述に近づいた。
「この地に風が届いた。それが“兆し”であるなら、我らは迎える者の責を果たさねばならぬ。信じているなら――立て、坊主」
ナイガルが阿述の肩を強く叩いた。
「立て。そして、旗を掲げろ。迎える者がいる限り、道は消えぬ」
* * *
その夜、西涼の空に、ひとつの旗が掲げられた。
童庵の布を縫い合わせた、白地に赤い縁の即席の旗――
呂明の志を継ぐ者として、阿述が掲げた、その「迎える旗」は、
まだ遠く離れた地にある者の目に、かすかに映ったという。
それが誰かは、まだ誰も知らない。




