国家戦略室
「…セプディッチに宿礼院が?」
エヴリヨン侵攻の指揮を執るジョハンに不穏な情報が寄せられた。
窓のない真っ暗な完全防音のホール。
蝋燭を灯す燭台だけが、この部屋の光源である。
ドアは、三重にされ、ここでの会話は、外部には知られない。
国家戦略室に集められた大臣、将軍らが凍り付く。
彼らは、狩人の事情を知っている者たちだ。
首相が狩人であることも勿論、承知している。
「イングルナム公、宿礼院が動いたのですか?」
立派な口髭、片眼鏡、でっぷりと肥え太った極上の背広男が訊ねる。
だがジョハンは、上の空だ。
返事はない。
「…獣の病だと?
………早過ぎる。
………どういうことだ………?」
ジョハンは、小さな紙を握りしめ、独り言ちた。
大臣、将軍らは、黙って見守るしかない。
しかしやがて、それに耐え兼ねた一人の背の低い背広男が問う。
「閣下。
…報せの内容についてお教え願えますか?」
ジョハンは、しばらく紙を握りしめていた。
しかし一同に説明する必要を認めたのか。
やがてゆっくりと話し始める。
「…宿礼院本部の第1外科が動いている。
クリンデル療養所、バーナム施薬院、リップルハム診療所。
合わせて1千名の部隊を派遣した…ッ!!」
と眉を指で抑えながらジョハンが答えた。
「どう考えてもフィンガーが死んでから動員できる人数ではないッ。
宿礼院は、セプディッチに獣が出ることを知っていたとしか…!!」
「落ち着いてください。」
最初の太った男がジョハンを宥めるようにいった。
また彼は、ポケットに手を突っ込んで話し始める。
気軽い調子でだ。
「彼らは、聖杯のことを知っている。
…だが軍を動かしている以上、どうにでも出来るではありませんか。
騒ぎに乗じて彼らが聖杯を手にしても取り返せば良いのですよ、イングルナム公?」
「それどころの話ではないッ!」
ジョハンは、両手で左右の眉を抑える。
そのまま国家戦略室の中央にある戦略机に両肘を着いて屈みこんだ。
巨大な戦略机には、地図が広がっている。
大小のコマが数多く並び、敵と味方を示していた。
ジョハンの目がせわしなくそれらを睨む。
「…宿礼院が…。
やつら、我々の掴んでおらん情報を寄越してきおった。
獣の病だと。」
ジョハンが唸ると大臣、将軍らは、顔を見合わせた。
「獣の病…。
つまりそれは、もしや…。
獣化が伝染病のように感染拡大するということでしょうか?」
勲章を胸に着けまくった老将軍がしわだらけの顔をさらに険しくしていった。
ジョハンは、両手で眉を抑えながら小さく頷く。
「ハーバーウィンガモット病と名付けて…。
…いや、名前などどうでもいいことだッッ!!
連中の…いや、それは………ッ。
…我々の…予言にない?
…そんな………獣の病………。
……うう…あの、忌々しい………。」
明らかにジョハンの様子がおかしい。
大臣、将軍らも顔を見合わせた。
「閣下。
コーヒーの飲み過ぎです。
休まれては?」
若い貴族の大臣がジョハンの身を案じる。
しかしジョハンは、顔を揉んで眠気に抗っていた。
「い、今…寝ていられる…ものか………。
今、寝たら………悪…夢に…に……入って………。
………あ………。」
遂にジョハンは、戦略机から倒れ込んだ。
「今、寝る訳には………。」
しかし次の瞬間。
ジョハンは、国家戦略室から忽然と消えてしまった。
最初からそこには、居なかったように。
残された政府高官たちは、ジョハンの居た場所をしばらく見つめていた。
そして一人が呟くように若い官僚に指示する。
「おい、君。
巣穴に伝達を…。
閣下が夢に入られたと。」
「了解しました。」
他の大臣、将軍らは、深い溜め息を着く。
椅子に逃げるように座り込む者。
部屋から出て行く者。
ウロウロと戦略机を周回する者。
皆、すっかり長丁場に疲れ果てていたのだ。
そんな中、戦略机に集まった数名の老人たちが予備会議を始めている。
「…イングルナム公が夢に入っている以上、当面は、エヴリヨン戦線だ。
公の思惑は、ともかくとして皇帝を今度こそ処刑台に乗せられるな?」
「そんなことよりも北部戦線だよ。
シャーランド伯のA案を破棄して、テューウォード伯のB案を再度、議論し直しては…。」
「作戦は、変更するために話し合うものではない。」
「全ては、宿礼院の動き次第だ。
全部の案件は、相互に関わっている。
事は、そう単純ではない。」
「いや、これを見給え。
獣の病とやらが本当なら国内問題を軽視すべきではないよ。
感染が広がったらどうするのだ?」
「血統鑑定局がこの病を血液鑑定で見つけられなかったことに責任がある。
これを機会に連中を叩くことだ。」
「卿が補佐官を前に…。
その元気があるのであれば血統大臣に相応しいがな?」
「血統鑑定局、獣の病は、どうでもいい。
そんなことは、騎士団が考えればいいことだ。
今は、全力を賭して聖杯を手にする事だよ、卿。」
「ジョハンが眠りました。」
巨大な機械を前にしている宿礼院の医師が、そう言った。
磁気テープや真空管が世話しなく動き、盗聴を続けている。
他にも同型の機械が薄暗い部屋に何台も並ぶ。
国家戦略室が盗聴されているとは、彼らが知る由もない。
《星界の智慧》には、それが可能なのだ。
今、この医師が操作する機械は、国家戦略室の至る場所に隠された子機から情報を得ている。
またこの部屋の機械は、世界中、いや《夢の門》を超えて宇宙悪夢的多元世界とも通信できた。
「くっくっく……。
ジョハンが寝ている間に指揮を執るのが副総理ではな。」
隼を模したマスクを被った医師が薄笑いを浮かべていった。
―――もちろん顔は見えないが
「いやあ。
老人共はともかく女王は侮れん。」
と巨嘴鳥のマスクを着けた医師が答えた。
「では、しばらく奴らの手が止まるな?」
別の医師が機械を操作する医師にいった。
問われた医師は、操作を続けながら頷いて答える。
「いえ、教授。
ジョハンは、他の騎士団支部にも声をかけている様子です。
…セプディッチ入りしている連中は、かなり居るのではないかと。」
「…見つけ次第、殺せ。
全員、感染しているんだからな。
…理事長にも、そう連絡しろ。」
「教授。
……新大陸との時差が…。
理事長は、眠っておられるかも…?」
「なら夢に繋げ。」
「理事長に話しても仕方ないんだが…。
手術作戦を勝手に進めると拗ねるからねえ。」
「はっはっは……。
政治は、根回しと駆け引きですよ、クーンズ先生。」
「へリング君。
君は、重い話が好きだからねえ。」
「二人とも腹芸を覚えにゃいかんぞ。」
そう言って宿礼院、第1外科のオットーは、背伸びして窓の外を見る。
セプディッチ上空を部下たちが飛び回っている。
「可哀そうに…。
住民はともかく、優秀な狩人を失うことになるな。」