糞虫
「首相!」
運転手が叫ぶ。
黒塗りの高級車を貧民が取り囲んでいた。
場所は、薄汚い下町である。
事故の為にこちらの道に入ったのが悪かった。
運転手は、冷や汗を、じっとりと浮かべる。
「…首相、顔を下げてください!!
危険です!!」
しきりに彼は、後部座席にそう叫ぶ。
首相は、眉毛を指で抑えた。
彼の光り輝く青い背広は、貧民たちが10年食べていけるような値段がする。
ダイヤモンド着きのカフスボタンも馬車2~3台の値が着く。
そんな雲上人に貧民たちが物乞いを始める。
「お恵みを~!」
「お恵みをーっ!」
「どうか、お恵みを!」
貧民たちは、興奮して車を揺らし始めた。
すっかり運転手は、青くなっていた。
「イングルナム公、顔を!!
危険ですから!!」
運転手がなおも叫ぶ。
しかし首相は、顔を下げようとしない。
それどころか自分から車のドアを開け、外に降り立った。
「いッ…イングルナム公!?
待って、どこに…!?
し、首相ぉッ!?」
運転手は、目を剥いて真っ青になる。
しかし彼は、ハンドルを握ったまま運転席を離れない。
ブレーキを踏む足が痺れて来た。
煤と灰で真っ黒な顔たちが首相を包囲する。
イングルナム公爵ジョハン・キャヴェンポールは、貧民たちの前に姿を見せた。
「お恵みくださいぃ…。」
「小銭でも構いませんから…。」
「どうか、どうか、どうか…。」
「へへえ、旦那ぁ!」
少しの間、首相は、薄汚い疲れた顔の男女を見つめていた。
しかしやがて小さな声で呟いた。
「…グレンビルワースは、今日中に殺せ。
もう、勘弁ならぬ。
それと私に、この開戦に批判的な記事を書いた記者…。
生意気なインタビュアーもいたか?
悲惨な最期を遂げさせろ…ッ!」
「…はい、院長。」
貧民の一人が小さく答えて頷いた。
二人の会話は、他の貧民の声で運転手には、聞こえない。
貧民に化けた糞虫の狩人だ。
部下たちに指令を与えると糞虫の長、正直者ジョハンは、車に戻った。
連合王国の総理大臣と狩人の長の二重生活は、過酷なものだ。
「首相!!
お怪我は…ッ!?
ど、どうして車を降りたのですかッ!?」
乞食が車を離れると運転手は、逃げるように車を発進させる。
あっという間に不気味な貧民街を高級車が脱出した。
「小銭を渡したら引き上げてくれたじゃないか。
…もう、平気だよ、君。」
眉を抑えながらジョハンは、運転手にいった。
まだ窓の外を睨んで何か呟いている。
まさか戦争に発展するとは。
”無罪”フィンガーは、遺跡から奪われた聖杯の奪還任務中、予期せぬ獣に遭遇。
あろうことか死亡した。
聖杯に関して騎士団本部には、報告すまい。
手を打たねばならん。
「軍を動かしてでも聖杯の移動を阻止する。」
そう言うのは、簡単だ。
しかし議会を納得させるのは、容易ではない。
反対する議員、リップウッド伯グレンビルワースは、殺す。
反戦記事を書いた記者も始末する。
とにかく急がねば。
「しかしだねえ…。
院長、騎士団本部に黙って事を進めるのは、感心せんよ?」
柔和そうな顔をした狩人がグラスを手に持ちながらジョハンにいう。
場所は、とある港酒場。
幾人かの糞虫の狩人たちが密会していた。
もちろん離れた場所には、警護の者たちが潜んでいる。
糞虫は、しばしば貧民に紛れて密会する風習があった。
秘密結社気取りの権力者と金持ちの一種の夜会政治だった。
「総長に国際政治が分かると思うか?
…きっと我が国が戦争する相手も知らんよ。
地球儀を買ってやった12歳の孫娘の方がまだ物事を心得ている!」
ジョハンは、胸を反らせて答える。
「…どこでしたっけ?」
美しい女狩人、血塗れミュラが訊ねる。
ジョハンは、苛立った表情で自分の眉を指で突きながら答えた。
「エヴリヨン。」
「ああ、エヴリヨン…。
…どこですか?」
「ルブスラトガの下、南の方ですな。」
ミュラの隣にいた白髪の老人がビールに鼻を突っ込みながら答える。
ミュラは、宝石のような青い目を巡らせて考えたが分からない。
その様子にジョハンは、呆れた。
ミュラは、ジョハンに声をかける。
「…そんなことは、どうでもいいとして。
聖杯は、取り戻せるんでしょうか?
私、教会に何と報告すればいいのか…。」
この物言いがジョハンを怒らせる。
「そ、それは、君が考えることだよ!!
教皇に妙な告げ口をする連中を抑え給え!!」
ジョハンは、額を抑えて顔を横に振りながら怒鳴った。
ミュラは、口を尖らせて肩を竦める。
「院長、少し休んだら?」
別のやや太り気味の男がいう。
ジョハンも顔を両手で揉みながら疲れた様子を見せる。
「何にしましょう?」
店員がミュラに声をかける。
五人ぐらい子供を産んで育てたんじゃないか。
というぐらい大きなミュラの胸とお尻に彼の瞳は、熱中している。
女神のように清廉な美しさをミュラは、持っている。
純朴そうな長いまつ毛をした顔は、優しい印象を受ける。
その一方で毒々しいまでに肉感的な四肢は、男を惑わせる女悪魔じみていた。
そんな彼女の隣にいるジョハンに男は、気がつかない。
酒場の一角に首相が居るとは、誰も思わないが。
「マティーニを。
…ガムシロップを入れて甘めに。」
ミュラがそう答えるとジョハンは、
「酒の味に注文が着けられるぐらいなら大丈夫だね。」
と嫌味を言った。
「…そういえば。
聖杯とフィンガーを殺した獣の関係は、どうなんでしょう?
本当に単なる偶然でしょうか。」
ミュラがジョハンにいった。
それにジョハンも思わず眉を吊り上げる。
ジョハンは、答えない。
代わりに他の狩人がいった。
「血統鑑定局は、血中成分から獣化の兆候を調べておる。
しかし彼らとて何億人もの人間の血液を完全に追尾しておらんのだ。
こういうこともありなん。」
またミュラは、キョトンとした顔でいう。
「フィンガーが追っていた賊が獣になった。
…そういうこともあるんじゃないでしょうか?」
単なるミュラの思い付き。
しかし何か嫌な予感がした。