35 契約の履行
次の朝のこと。
俺とプトは一緒にテッサ地区にある「醤油豚骨 田中」へ行った。
プトが付いて来ることについては、少しだけ不安があった。
ジグラフトに殴り掛かるかも知れないと思ったからだ。
店に入った俺は、入口から辺りを見渡した。
そこには苦労と同時に喜びの記憶が詰まっていた。
ソフトキャンディが施工してくれた和風の内装。
柿渋みたいに見える黒い床。
肉の冷蔵庫とは思えない、木目のカウンター。
そこに施された魔法の注文・決済システム──魔術師と何時間も話し合い、微調整をした傑作。
今日で、その全てとお別れか──
──カラン。
オーク族に取り付けてもらったドアチャイムが鳴った。
俺は背中に寒気を感じ、前方へ飛び退いた。
振り返ると、ローブをまとった長身の人物。
プトに近付けまいと一歩踏み出すと、逆に彼女が俺を引っ張り、後方へと下がらせる。
まさに英雄がお姫様を守ろうと、その前に立つのの完全逆パターン! 何とも情けない限りだ。
(こんなときくらい、カッコつけさせてよ──)
「おはようございます、タナカさん。その方は──まさか用心棒ですか? 申し上げましたよね、憲兵等に連絡したら契約は無効だと」
ジグラフトは深く被ったフードの奥から、目をギラギラさせて言った。
「違う! 彼女は俺のパートナーだ。俺のことを心配してくれているだけだ!」
俺は、プトの背後からそう叫んだ。
「まあ、良いでしょう。実際この地区周辺に憲兵は潜んでいないようですし──。
ただ、警告しておきますよ、お嬢さん? 私は、ほんの一瞬であなたを殺害出来る。
そして無駄な殺しは望みません。どうか──私にそうさせないで下さいね?」
ジグラフトは両腕を高く掲げた。
空中にある目に見えない何かをこね混ぜる。
もし、俺に魔法の才があったなら、ジグラフトの云うマダの奔流が見えたろうか?
あるいは、奴がこね回す薄汚い魔法の術式が──
けれども、そんなものは見えない。
期待外れの英雄である俺には、永遠に──
「さあ、タナカさん! 耳をそろえて、この店の全てを私に引き渡しなさい。
拘束力を持った厳正なる魔法の名において──
あなたの──ご回答は?」
俺の頭の中を、一種の走馬灯が巡った。
ただそれは、本当に、ほんの一瞬だ。
俺は身を乗り出し、ややプトに覆いかぶさるようにして言った。
「解った。この店を差し出す! この店はお前のものだ!」
「大変結構!」
ジグラフトの手の回転が止まった。
大きく開かれた両の手がゆっくりと近付いて行き、握り合わされる。
特別な出来事は何も視認は出来なかった。
確かにあったのは、貫かれるような確かな喪失感だ。
「──ありがとうございました。確かに受け取りました。
あなたが雇った労働者の小人、それは当店に所属しています。ですから、引き続きここで働いて頂く。しかしあなたはどうしますか? ──あなたさえよければ、従業員として雇って差し上げますよ?」
プトの身体が、怒りの為の強張るのが解った。
俺はぎゅっと彼女を抱き、押し留めた。
「──心遣いに感謝するよ、ジグラフト。どうしても仕事に困ったら、是非働かせてくれ」
言うと、プトの手を引き俺は店を出た。
一瞬、振り返って店の外観を眺める。「さようなら」と一言、心の中でそう念じた。
俺とプトは、まだ早い朝の街を無言で歩いた。
互いに腕を絡ませ、手を強く握り合ったまま──
やがて一台の機械馬車が俺たちに近付き、並走した。
ドアを開けて客席に乗り込むと、俺たちは激しく抱擁した。
「やったね、ジュンイチ! 上手くいった!」
「ああ、本当に良かった! 余計な条件が追加されないか、ヒヤヒヤしたよ!」
俺はプトの頬に手を当て、顔を寄せた。
そして激しくキスをした。
プトも同じくらいの荒々しさでそれに応え、俺たちはしばらく、喜びを分かち合った。
「──ちょっと、お兄さんたち。朝から激し過ぎなんだが?」
御者台の窓が開き、トマーゾが言った。
「お、おう」
俺はそこで止めようとしたが、どうやらプトにその気はないようだった。
ここで、時間を少し戻す。
前日ジグラフトが店に現れ、自宅に帰ってプトに相談したときだ。
「大丈夫。あなたは悪くない。何も悪くないよ。だから泣かないで。ねえ──ジュンイチ、聞いて欲しいことがあるの。あのね──」
俺の耳元に口を寄せたプトは、その後信じられないことを言った。
「──お店なんか要らないんじゃない?」
「え? ──は?」
「誤解しないで聴いてね。私、あなたって本当にスゴイ人だと思うの。
あなたが考案した、あの魔法の注文・決済システムなんて、私はとても思い付かないもの。
ジュンイチって、チキュでは「えすいー」っていう、機械を働かせる魔術師みたいなことをしてたんでしょう? きっと、それが関係しているんだろうって。
で、思ったんだけど、あの注文・決済システム、改良したらもっとスゴイことが起きる気がするんだよね。
例えば、小型機械鳥ってあるじゃない?
お客さんがあれから注文出来るようにして、その鳥を介してラーメンを届ければ、店舗なんて別に持つ必要がないと思うの。
今はカウンター上にある、魔法陣のマダを使って契約しているけれど、機械鳥の水晶玉に含まれるマダを利用すれば良い。確かに厨房は持つ必要があるけど、お客さんが店に来て、並んで待ってもらう必要もない。
魔法術式の契約が広がれば──オークの王族が許可するかどうかは解らないけど──エルタファーからも注文が取れる。いいえ、下手したら、全世界から注文が殺到する──
ジグラフトは単に、『お店を寄こせ』と言っているんだよね?
だったらいっそ、あげちゃっても良いのかな、って──」
なんてことだ!
プトよ、君は天才か!
──けれども、俺には問題があった。単純にお金である。
二人の小人のバイトが育って来たので、俺は彼らに独立を提案した。
けれども二人には資本が無く、高い金利の融資も受け難い。
そこで俺は、思い切って直営二号店の開店を計画した。
それに向け、かなりの額を突っ込んだところだったのだ。
「──プト、それは素晴らしいアイデアだと思う。けれど、俺にはもう金が無いよ。
奴が奪う店の全権には、投資した資本も含まれる筈だ。今の俺は、ほぼゼロだ──」
ふいに、プトが俺の手を取った。
「──私が二十二万エルター(約四千五百万円)持っているって言ったら、どうする?」
俺は固まった。
「は? マ、マジすか?」
「私の給料、エルタファー時代から比べて本当に何倍にもなったの。
たくさん資格を取って、ステップアップして。役職にもついて──
それでねジュンイチ。私、実はずっと思ってた。
やっぱり私はあの日、エルタファーであなたに買われたんじゃないかって。
勿論、あなたは奴隷の私を買った訳じゃないし、そんなつもりが無いのはよく解ってる。
だけど、どうしても、その事が引っ掛かっていた──
だから今度は、私があなたを買い取る番。
──これで本当に、おあいこだよね?」
トマーゾの馬車は朝の街を颯爽と進んで行く。
これから巡るのは、厨房になりそうな広い物件。
そして魔法の調理器具業者、農産物業者などなど──
しかし今一番の問題は──
プトが俺を解放してくれるかどうか、である。




