⑮ 醤油のともだち
「ぜーんぶ、奢ってくれるんだよね? じゃ、すっごい店、予約したから!」
その夕方、全快したプトはそう言った。
俺は彼女の元気な姿が嬉しかったが、心の中には戸惑いがあった。
百六十オルタル──
日本円にして、たったの三千二百円!
果たして、足りるのだろうか──? そればかりが心配だった。
彼女が俺を案内したのは、エルタファーの東岸地区ダダ・ハー。
以前プトから、奴隷市場の場所として聞いたことがあった。
この世界の海を見たのは初めてだったが、それはどこまでも雄大で、純粋に美しかった。
沈みゆく太陽が水面を赤く染め、砕けた波が黄金に輝く。
その上を幾つもの帆船や今にも沈みそうな漁船が停泊してる様は、まるで海賊の時代に来たかのようだった。
海岸沿いの舗装道路は飲食店街で、魚介類や肉の塊を描いた看板が店の軒先を飾っている。
プトはその一軒に俺を連れて行った。
店内は、まるでアジアの食堂風。
入口にドアはなく、四角くくり抜かれた空間がそのまま外と繋がっている。
乱雑に並んだテーブルの向こうに小さなカウンターがあり、その奥が小さな厨房らしかった。
「ここは魚介も美味いし、肉も美味いんだ」
適当なテーブルの一つに腰かけ、メニューを見ながらプトが言う。
俺もそれを見たのだが日本のファミレスみたいに絵は無く、文字情報だけでは良く解らない。
だからプトのお任せで頼むことにした。
「本当は私たちは、魚介はあまり身体に良くないんだ」
一つの肉系と、幾つかの魚系メニューを選んだあと、プトが言う。
「え、そうなのか?」
そういうえばスカルベルは海老に似ていた。
だとすれば、あれも食べてはいけなかったのでは──?
「生が良くないのさ。食当たりではなく、体質に合わない。だけど火を通すとほとんどの物は食べられるんだ」
なるほど。そうやって種族特有の毒性を消す知恵があるようだ。
「プトは昔から魚を食べてたの? それともやっぱり肉?」
「肉だね。私の故郷があるエルガンドでは、基本は肉料理。魚はここへ来てハマったんだ」
プトが言ったエルガンドとは、工業都市エルタニアのある大陸の名前で、ここエルタファーからは海で隔てられている。暇なとき、例の地図を眺めていたので聞き覚えがあった。
プトは別の大陸で生まれ、奴隷となってここに居る──
俺はあえてそれに言及しなかった。
想像しただけで、壮絶な人生であるに違いなかった。
やがて運ばれてきた料理は、目にも鮮やかで、そして素朴だった。
魚の切り身をさっぱりとした柑橘系の皮と一緒に焼いたもの。
イワシに似た魚を複数のみじん切り野菜で煮込んだもの。
一見してよく解らなかったのは、皮つきのスライスした肉のようなものが幾重にも並んだ皿。一体、何の肉なのだろうか?
「さあ食べよう!」
プトは適当な木のスプーンで、それで器用に取り皿へよそってくれた。
俺は、いただきます、をし、小さな籠の中で一緒くたになっているナイフとフォークを取る。
日本人としては箸が欲しいところだが地球時代、先輩との食べ歩きでナイフとフォークしか出ない店にも行ったことがあるので、とりあえず問題ない。
まずは、切り身の焼物。
レモンというよりは、ミカンとライムの間みたいな香り。
少量の絞り汁も入っていたらしく、これの酸味が効いて実に美味い。
本当に、昔先輩と食べたイタリアンを思い出させる。魚もかなり新鮮なのだろう、臭みは一切なかった。
次は、魚の野菜煮込み。
これが、まあ美味い。
一旦みじん切りを油で炒めているのだろうか、しっかりと野菜の甘みがあり、ほのかに酸味のある黒い野菜が味を引き締めている。俺の母親も祖母もこんな料理は作らなかったが、何か優しい家庭の味を連想させた。
さて、最後は肉の山だ。
これを食べたとき、俺は「おや?」と思った。
肉そのものは淡白だが、皮にしっかりと脂肪があり、身はとても柔らかい。
これが何の肉なのか──確かにそれも気になる。
けれども俺がもっと気になったのは、かかっているタレだった。
魚に由来するような、独特の香り。悪くいうと、若干の生臭さ。
しかしそれを上回る、強く濃厚な旨味!
日本のしょっつる。ベトナムのニョクマム。タイのナンプラー。
──そう、それは魚醤だった。
たしか魚醤とは、菌の働きで魚が醗酵して出来るもの──
この世界にも──発酵食品がある!
その気付きは、ラーメンにとって欠かせない発酵調味料「醤油」に近付くための重要な一歩だった。




