⑬ 成功の始まり
翌朝のことだった。
俺は物音で目を覚ました。
正確には、低い犬の呻き声と、何かが落ちるような倒れるような音だ。
眠気まなこを擦り布団から起きると、なんと床にうずくまるプトの姿。
俺はベッドを飛び出し、駆け寄った。
「どうした! 大丈夫か?」
プトはゆっくりと首だけでこちらを向き、蚊の鳴くような声で言った。
「──痛い。お腹が、刺すみたい──」
プトは腹部を押さえ、しばらく悶絶した。
そして肩を貸して、トイレに連れて行ってくれるよう俺に頼んだ。
プトは歩くのも辛そうで、出来る事なら抱きかかえて行っても良かった。
しかし犬人族女性の肉体は、想像以上に重い。
太っているからではない。
しなやかで引き締まった筋肉がそうさせるのだ。
俺はプトの肩を抱き、生まれて初めて女子トイレに入った。
彼女を白い個室に座らせると、急いで離れる。
そういえば地図で木人先生の住所を教えてもらったことを思い出し、
「プト! 木人先生を呼んで来る。待ってろ!」そして、駆け出した。
領事館の玄関をくぐったとき、俺は奇跡でも起ったのかと思った。
路地の遠くからのっしのっしと身体を揺らし、目当ての木人先生その人がやって来る!
──この人、予知能力でもあるのか? などと思いつつ、俺は駆け寄った。
「先生! ちょうど良かった。実は診て欲しい患者が──」
「アア 話ハ聞イテル ダカラ来タノダ けろりん ダロウ?」
「え! ケロリンが?」
「酷イ 嘔吐ト 腹痛ダト 聞イテイル 何ダ? 違ウノカ?」
俺の中で、急速に原因は特定された。
──餃子だ。
俺は先生と共に、蛙用の宿舎へ向かった。
プトのことも心配だったが、多く食べたのはむしろケロリンだった。
昨日も訪れたが、蛙用の宿舎は実に蛙の居心地が良いように出来ていて、床は基本的にフカフカの苔だ。そこを渡って部屋に行くが、ケロリンの姿はない。
料理番の三人組の一人に尋ねると、蛙用のトイレに籠っているという。
俺と先生は急いで向かった。
蛙用のトイレは個室ではない。
夏に地球の子供が遊ぶ円形のビニールプール。部屋にはあのサイズの便器がドンと二つある。プールには絶えず水が滞留し、蛙たちはその中に浸かって用を足す。
ケロリンは今、その水の中に浮かび、まるで死んだ蛙のように伸びていた。
「おい! 大丈夫か!」
俺が声を掛けると、ケロリンはおもむろに顔をあげ、そしてゲポッと液体を吐いた。
プールの中に黄色い濁りが広がり、やがて混ざって分らなくなる。
「さっきから、この調子。心配!」
しゃがみ込んで看病していた三人組の一人が言った。
「田中 オ前 何カ 知ラナイカ? ぷとモ ナノダロウ?」
俺は自分の作った料理が原因ではないかと話した。
先生は、それが残っているなら見たいと言い、俺たちは一旦ケロリンを残して、人間用の宿舎に向かった。
プトが落とし、そして片付けた餃子は宿舎のゴミ箱にあった。
先生は皮を剥ぎ、中身を検めると、わさわさと頭を振って言った。
「体調ガ 悪クナッテ 当然ダ 彼ラノ 身体ニ 合ワナイノダカラ──」
先生が説明してくれたことを要約すると、次のようになる。
まず、ケロリンは中身の方には問題がなかったが、皮が消化出来なかった。
蛙族にとって、いわゆる地球でいうところの炭水化物は彼らの必須栄養素ではなく、それを分解吸収する内臓機能、あるいは腸内細菌が存在していなかった。
次にプトは獣人ではあるが、どちらかというと人間型に近い為、炭水化物は平気だった。
問題だったのは中身──あの水草が原因だった。
蛙族が好む水草、「アゾラーラ」は、その香味成分に含まれる化合物によって、犬人族の血液中の赤血球を破壊し、嘔吐や腹痛、眩暈などを引き起こす。
もし食べた量が多ければ痙攣や、最悪命の危険もあったのだという。
俺は頭を殴られたような衝撃だった。
何気なく、ただ良かれと思ってやったこと──
それがまさかこんな結果になるなんて──
けれども、泣き言をいっている場合じゃなかった。
先生が早速、治療薬を作ると言ったからだ。
先生は慣れた手付きであの厨房を起動し、鍋を使って薬草を煮始めた。
それぞれ症状が違うので、先生は二種類作ると言った。俺はこまごまとした仕事を手伝った。やがて必要になる漉し器や、その熱い液薬を入れる器の準備だ。
出来上がった二種類の液薬は、どちらも酷くどろりとし、いかにも苦そうな臭いがした。
(俺が飲んでいた水薬の方がまだ爽やかだ)
俺と先生は薬を持つと、まずは近い方であるプトのもとへ行った。
プトは女子トイレの前の壁に、もたれ掛かれるように座っていた。
先生は熱いのに注意を促しながら、ゆっくり少しずつ、それを飲ませた。
プトはまた腹を押さえて悶え、そしてトイレへと駆け込む。
心配になって追おうとすると、先生が押し留めた。
「オ前 雄ダロウ? ココハ私ガ診ル けろりんニ 同ジ様ニ シテヤレ」
俺は言われたとおりにした。
まるでいつか見た光景の真逆だ──
そんなことを思いながら、俺は飲んではもどすケロリンに薬を飲ませ続けた。
俺は激しい挫折感を味わっていた。
地球の料理は、ここでは意味がない──
人間の身体ですら複雑で、腸内環境やアレルギー、またある化合物に対する個体差の問題があるのに、それが他種族ともなれば尚更だった。
この世界に来て、初めて感じた本当の無力感──
──しかし、これこそが、やがて俺を成長させるものだった。
味わった挫折はハンパなかったが、これを切っ掛けにして、他種族がひしめき合うエルタロッテでそれぞれの食性を理解し、真の意味でいかに現地化させるかのヒントになるのである──




