雪解け水 1章の6
前回のあらすじ:消えた中学時代
「高校には行ってみた?」
「ほとんど……」
「電車が……外が怖い?」
「……はい」
うなづいてから、胸のつまりを吐くように返事をした。苦しかったが、その分息が楽になった。
高校は通信制の学校に決めた。念のため同級生と会わないよう、電車で一時間以上かかるところを選んだ。偽物の病状のことを話して、特別学科も現地に参加することはないように了承を得た。幸い、学業に難はなかったので、通信制でも勉強をすることに問題はなかった。
むしろ、勉強と言う作業は自分を保つために必要だった。元々人付き合いが苦手というわけではない。友人はおろか、親ですら交流を絶ってしまったような直哉にとって『することがある』ということは救いだった。
成績そのものは中学よりむしろ良くなっただろう。しかし、人並みの、普通の人生を送ってもらいたい父にとって、ほとんど家にいた昨年は満足できるものではなかった。
『今年は、学校行ってみるか? 少しでも』
年明け、一月三日。うっかり目が離せなくなってしまった箱根駅伝を見てると、父が優しく尋ねた。走ることは好きだった。中でも長距離が得意で、陸上をやるなら駅伝もいいかもなんて、中学のはじめのころは思っていた。それは父も知っている。
『さぁ高橋が今、仲間の元へ帰ってくる! 今年の箱根は往路も復路も、まさかが続くものばかりでした。しかし、まだ勝負はわからない! 総合優勝はどちらになるか。2位、稲垣その距離を縮めていく! 仲間のために! 最後の瞬間まで、一秒を誰よりも早く!! 待っている人たちの為に!!』
テレビでは実況に合わせてアンカーとゴール前で待つ選手たちの映像が交互に映し出される。父はまさか、自分が今更こんな眩しい人生を送れるとでも思っているのだろうか。『……無理だと思う……』
わからないとか、行きたくないとかじゃなくて。拒絶の言葉。誰もが想像する『普通の高校生活』を送れなくて、直哉の中にはあきらめというものしかなかった。
――無理だろう。なにもかも――
情けなくてどうしようもなくて頭を垂れる。箱根駅伝は声を荒げた父のおかげでどうなったかは知らない。でも、あのときの父の堂々巡りの感情は覚えてる。
優しさと苛立ち。
父もどうすることもできなくて焦っていたのだろう。でも、本当のことはとても話すことができなかった。同級生の何人かは直哉が本当に抱えていたものの片鱗に気づいてたかもしれない。好奇や軽蔑の眼差しの中に、恐れを抱いて自分を見ていた者が何人かいる。父と母にまでそんな眼を向けられたら、自分は全てを失う気がしてた。
「そうか……辛かったね」
志歩の言葉に垂れた頭をあげる。独り言のように彼は話した。
「僕も、中学くらいから人の声が聞こえるようになった。高校も行かなかったし、行けなかった。僕の場合は、親にバレる結果になったけど、たまったもんじゃないよ。聞きたくもないことを聞くことは。好きでこうなったわけじゃないし」
吐き捨てる声に心が引き上げられた。その身に襲い掛かる理不尽さに対する怒りと憎しみは直哉の中にもあった。不確定に揺らぐ思いがついにはっきりと杭打たれた。
ああ、仲間だ。この人は仲間。
自分と同じなんだと思った。本当にわかってくれる人と、ついに出会えたんだと思った。
小さな世界が滲んで揺れる。堪えようとまた下を向くと、志歩の手が微かに動いたがすぐしまわれた。その思うようにできない優しさすら、直哉を支えてくれた。
「直哉くん、怖いかもしれないけど、ともかく僕と一緒に治療してみないか。この病気は研究段階だが、僕の行った病院なら受け入れてくれると思う」
志歩の言葉をききながら何度も何度も頷いた。治療をしたかったかどうかはわからない。ただ、あのときは嬉しかった。わかってくれる人がいることが。一人じゃなかったことが。それだけが、ただ自分の背中を押していた。志歩はしばらく直哉の側にいると、部屋を出て父と母の元へ行った。長くなるはずの話は、そのまま終わってしまった。
無言のまま車は静かに東へと走り続ける。志歩は本当のことを言えない自分に配慮して、接触性感受症候群のことは伏せたまま両親と話をつけてくれた。でも、病院へ自分が連れていくと言ったときは、流石に申し訳なく思った。父も母も驚いていた。
『いや、そこまでしてもらうのは……』
『お父さんやお母さんの前じゃ構えてしまうかもしれません。本人がもういいって言ったらお願いします』
でも、本当は嬉しかったし、心強かった。
もう数年ろくに人のいる場所に出たことはない。いくら診察のためとはいえ、外に出ることは怖かったし、正直、両親についてこられても困ってしまう。同じ病を抱えた志歩が一緒にきてくれるのなら、こんなにありがたいことはない。
運転する志歩の後ろ姿を見る。結局、志歩はわざわざ今日の為に休みをあわせてくれた。上司である父も承知してるとはいえ、なんて良い人なんだろうと思った。
社会人っていそがしいんじゃないのかな。せっかくの休みなのに。嬉しいけど、申し訳ない。ごめんなさい。ありがとう。でも、藤田さんめちゃくちゃ仕事できるのかな。できそう。休みとかも、余裕なのかな……。
心の声がくるくる回る。こんなことをもし聞かれたらと、はじめて『読まれる側』としての心配をしてしまった。でも、ハンドルを握る手はもう間違っても直哉に向かってはこないだろう。何か物足りない思いを紛らわすように、窓の外を見る。走ってる人がいた。
その瞬間、箱根駅伝見ました? という言葉がのどまで出かかったが、呑み込んだ。呑み込んで、聞けば良かったのにと自分でも思った。
たぶん、この人は笑って答えてくれるだろう。だけど、後ろ姿、離れた距離分、聞くことはできなかった。そういえば、志歩はこの病気のことは『親にバレた』と言っていた。あの日、自分が泣きださなければ長い話になるはずだったものの中に、そのことは含まれたのだろうか。
歩道を走るランナーは次第に遠く離れていく。直哉の知りたいと思う気持ちも、やがて遠ざかって消えた。
続きます。このお話、原型はかなり前からあったのですが実際書き始めたのは3年前(2020年7月~)で3年かけて完成させました笑 挿絵も当時描いたものなので、今見るとそれも修正したい気持ちもありますが、当時の私の試行錯誤が見えてこれはこれで好きです笑