雪解け水 1章の5
前回のあらすじ:藤田さんの車の助手席に座って思い出す
「接触性感受症候群……」
忘れてしまわないように呟く。
これが長い間求めてきた答えなのか。自分の中にある得体の知れなかったものが、今、白日の元に晒される。言葉によって姿形を成したそれを頭の中で反芻して、やはりこれは病気だったのだと合点した。
ショックではない。むしろ肩の荷が下りた。お前は病気なんだ。すげぇ、病気怖ぇ。マジ病んでんだろ。一度、病院行けよ――病院には行ったけれど、答えはでなかった。でも今、ようやく探してたものが見つかった。ああ良かった。ほら、みんな。やっぱり俺は病気だったんだ。
かつての日々に応えるように、うつむき目を閉じる。志歩の声だけが、今に自分を繋げる。
「ネットは見る?」
「あんまり……」
答えながら首を振る。必要なときはもちろん使うが、たくさんの情報が際限なく流れ込むネットの世界は、頭の中に人の声が流れ込むのと同じように直哉に負担と気味の悪さを与えた。
「同じような症例を訴えてる人は世界中で数十例、日本では僕を入れて五例目。君を入れれば、六例目だ」
『仲間』を認める声で志歩は言った。直哉の方は、これまでずっと正体がわからなかったものが暴かれてただ茫然と聞くばかりだ。無言の反応を志歩がどう思ったか知らないが、穏やかに続けた。
「でも、本当はもっと症例があると思う。君と同じで、この症状に気づいても周りの人に話すこともできない人も多いと思うし、それが普通だと思う。君は、お父さんとお母さんに極度の潔癖症、強迫性障害だと話してるね」
三、四年近くついた嘘だった。もう一生、この嘘を抱えて生きるものだと思っていた。
「いつぐらいからなの? お父さんは中学に入ってからって言ってたけど」
弱々しく首を降る。長年の緊張が溶けて力が入らない。出した声は枯れていた。
「……小学校の終わり……今ぐらいに年が明けてから……人に触るとその人の心の声が頭の中に聞こえてくるようになったんです……」
ようやく本当のことが言えた。罪を告白する罪人の気持ちとはこんなものだろうか。深海に縛り付ける幾つものの手が離れ、ほんのわずか、息が楽になる。だけど、すぐに腹の底から鈍い記憶が蘇り、抉るようにまた引きずり込まれた。
最初は、そんなに怖くなかったのだ。驚いたけれど、面白いと思うことの方が多かった。明日のテストが嫌だとか、昨日のゲームですごいレアキャラが出たとか、誰が好きで嫌いとか……半分は顔に出ているようなとりとめもない他愛もないことが、みんなよりほんの少し早く気づいてしまうという感じだった。
漫画とかで聞いた超能力という言葉がよぎったときは、まるで自分は秘密のヒーローにでもなったような、そんな特別感でいっぱいだった。
だけど、中学に入ってその能力はどんどん成長して直哉を脅かした。今までは強く人に触らなければわからなかった人の心が、ほんの少し触れるだけでとどまることなく流れ込んでくる。好き。嫌い。昨日。私。気持ち悪い。俺。いつか。父さん。長。ねむ。幸せ。ママ。最悪。何。見ないで。死ねよ――
みんなが心の中に閉まっているものを、土足で踏みつぶしていた。知ってはいけないこと、知らなくてもいいこと、何もかも全て勝手に覗いては放り投げていく。自分がたまらなく醜悪な存在に思えて逃げた。
まず、最も警戒するのは体育の授業。それから休み時間。給食。何気ない日常。瞬間すべて――片時も気が抜けなくなる頃には、周囲から孤立していた。
異常な様子に学校から連絡が入ったが、もう両親にすら触れるのが怖くなっていた。いや、親だったからだろう。心配し、説得し、諭す言葉に叱責と失望の色が混じる。人の心の中に勝手に入った罰だろうか。いつの間にか侵入する側でなく、人の心の声は直哉の中に侵入し、喚き、殴りかかっていた。
ボロボロの頭でやっとみつけた自分を守る鎧が『潔癖症』と言う言葉だった。本物じゃないから父も母も疑わしく思うところはあるだろう。
ときに怒られ、呆れられ、ついには泣きながら母に説得されて行った病院で『強迫性障害』という言葉ももらった。けれど、便利な言葉が二つになっただけでそれ以外何の解決もしなかった。
ただ、世の中には自分以外にもいろんなことで苦しんでる人もいると知って、その人たちの苦しみを利用してることは申し訳なく思った。でも、どうすることもできなくて嘘をつき続けた。
別室登校やリモート授業を受けながら、なんとか中学を卒業した。卒業式は、行かなかった。行ってももう、直哉の居場所はなかった。母もそれには賛同してくれて、とやかくは言わなかった。
中学はもともと小学校とは学区が離れており、知り合いがほとんどいなかった。自分が友人を作れなかったように、母も友人を作れなかった。集合写真にいない卒業アルバムは、今、この家のどこにあるのだろう。
「なろう」は挿絵の表示箇所が選べていいですね。挿絵(兼表紙)2章の頭ぐらいでやめたんですがこうやって表示場所が選べて毎日あげると、なんだかなくなったら寂しくなるような気もします笑 今、別の話書いてたりとあまり余裕はないのですが、どこかで追加できたらいいなぁなんて思ってしまいます