雪解け水 1章の4
前回のあらすじ:直哉、たてこもる
志歩は車の中でクラッシックのラジオを流していた。人と会話をするのは困難。同様に、感情を乗せた歌を聴くのもあまり得意ではない。そうかと言って無音もツライ。歌がない音楽が一番直哉にとっては楽だった。
父の会社の部下である藤田志歩は、あの日から、急速に同じ病を抱える『仲間』となった。だけど、十近く離れた年上の『よく知らない人』であることに違いはない。
県東部にある国立医療センターまで車で一時間。二人きりでその長い時間を過ごすのは直哉にとってなかなかの問題だったが、これで助かった。ほっとして久しぶりの遠出に窓を見る。ふと、もしかして気をつかってくれたのかなと気づく。
後部座席からそっと運転中の彼の手を見る。今日は紺色の手袋。いくつ持ってるんだろう。
再び窓の外を見る。直哉は、数日前を思い出しながら考えた。
「ありがとう」
ドアを閉めると志歩はそういった。感謝される覚えはなくて一瞬顔をあげたが、泣いた顔は見られたくなくて、すぐに伏せた。笑った気がした。
「……さて、どう話そうかな。僕もまさかこんな身近なところで『仲間』をみることになるとは思わなくてね……説明の仕方が、まだまとまってないんだよ」
今度ははっきりと笑う。発作のように父と母と衝突してしまったとき、迎え入れてくれるのはいつも死にたくなるような感情だけだった。こんなふうに笑顔をむけられて、直哉は少し戸惑った。それを悟ったのか、志歩は小さな提案をした。
「座ろうか。多分、長くなると思う」
言って、志歩は床の上に座ろうとした。慌てて勉強机の椅子を勧めたが、こっちでいいよとあぐらをかいてしまった。自分はどうすればいいのかとためらっていると優しく言われた。
「君が座りたい場所へ座って。距離が近くて不安なら離れてくれて構わない。約束する。君に勝手に触らない。君のプライバシーに勝手に入ることは絶対にしない」
きっぱりと目を見て宣言された。しかし、見つめ合うような瞬間を崩したのは志歩だった。
「あ……でも昨日はごめん。いきなり手を触っていい? とか驚いたよね。焦ってたんだよホント。なんせ……まさか、こんな形で……僕も想像つかなかったっていうか……」
そこには志歩自身の戸惑いがあった。
彼の柔らかな物腰は、長く一人で抱え込んでいた直哉にとって安らぐものだった。でも、未だ驚きと強い不安もある。
父と母は、志歩が部屋に入る前に彼によって下に行くよう促された。今まで自分たちではどうすることもできなかった息子を、まさか会社の部下に預けるしかない事に父は何とも言えない顔を見せていた。母も志歩のことを好意的に見てはいるものの、所詮は知らない青年に我が子を預けることに、後ろ髪を引かれるような顔を見せていた。
だけど、下へ降りる二人の足音を聞いて直哉は安心した。本当のことは父も母も、誰も知らない。目の前の青年だけが『それ』を知っているはずだ。
「いえ……大丈夫です……ありがとうございます……」
それでも、これは賭けだった。この人は大丈夫。この人は信頼できる。この人は『仲間』――昨夜から一日も経たないわずかな時間におきた出来事が、自分の判断を裏付ける。でも、それを本物にするには、この人と言葉をしっかり交わさなければならない。
直哉は恐る恐る志歩と同じ床の上に、距離をとって座った。それが精一杯で、後はうつむいて彼の言葉を待つしかなかった。
「……人に触れると、人の声が聞こえる」
ずきんと胸を潰されるような痛みが走った。
「その人の考えていること、感じていること。まるで、自分の心の声をきくように、人に触れると人の声が流れてくる」
直哉は顔をあげた。志歩は、手袋をしたままの自分の手を見つめて、結んだ。
「手からの接触は最も声の流出が強く、布や紙など、物を隔てればその厚みの分だけ声は聞こえなくなる」
医者のように語る志歩をすがるように見た。
「これは、接触性感受症候群と呼ばれている」
続きます。
投稿時間、どのタイミングがいいかわからないので一時間ずつずらしているので今回はあまり間をあけずな感じですね。いったい、いつがいいんでしょうか。もしご希望ある方とかいたら教えてください