雪解け水 1章の3
前回のあらすじ:父さんの部下の人の名前は「藤田志歩」さん
息が止まる。喉を絞められた。目の前がぐらぐら揺れて、心臓が不規則に高鳴る。優しい顔をしているけど、青年の目は直哉を捕まえていた。父の表情が硬い。母は自分と青年の間に視線を彷徨わせている。先程まで笑顔で話していたのは演技だったのではないか――だまされた。
結論を出すと同時に直哉は立ち上がっていた。階段を駆け上がり、自分の部屋へ入る。鍵はないので、必死に握りしめた。でないと父は部屋に入ってくるだろう。
「直哉! 直哉!!」
予想通りだ。まるで中で人が倒れているかのような勢いで叩く。
「開けろ! お前のそれは病気だ! 藤田はな、お前の力になれるかもって言ってくれたんだ! 話を……!!」
引きずり出そうとする力に抗って激しい振動に耐える。嵐の中に放り込まれたように父の声がよく聞こえない。力になれる? 何を……!!
恨み言がよぎった瞬間、頭の中に囁くような小さな声で何かが聞こえた。父だ。最悪だ。感情が止められなくなっているのだろう。ドアノブ越しに聞こえてくる。いい加減にしてくれ直哉。どうしてこうなったんだ。俺たちのどこが。やっぱりこの子は。ダメだったんだ。ダメなんだろうか。
形振り構わず叫ぶ父の言葉に掻き消されつつも母の静止の声が聞こえる。過去にも幾度か激しいやりとりに発展してしまったことがあるが、人前、それも自分の部下の前でここまで我を忘れるとは思わなかった。
だけど、直哉に今父と母を思いやる余裕はない。小さな虫が孵化して脳の上を忙しなく掻き回っている。怒号の裏に隠された本心が。怒り、悲しみ、優しさすべてのものが赤裸々に直哉の頭の中で形作る。込み上げる吐き気を堪えて叫んだ。
「離せ! 離せよ!! 今すぐ離せ!!」
じゃないと――目の前が真っ赤に染まる。喰いしばった歯が獣のように露わになっていく。どうするつもりなのか、自分でもわからなかった。
「村上さん、大丈夫です。離して下さい」
水を打つような凛とした声だった。父は驚き、激しい感情の行き場を失った。しかし、もどかしさを抱えつつも、その声に従ったのだろう。侵入する力も、頭を掻き毟る『声』も消えた。残された直哉の抵抗する思いだけが微かに扉を前へ押しやる。けれど、青年は支えるようにそれを返した。
『大丈夫』という声が、一瞬頭に響いた。
「直哉くん、驚かせて本当にごめん。やり方を間違えた」
その言葉に全身の力が抜けた。じわりと身体が熱くなって、涙がにじむ。そして、頬を伝ってぽろぽろと零れ落ちた。誰も見ていないのに、直哉は強く目を閉じて拾い集めるように拭う。
「僕はお父さんの言う通り、君の苦しんでいることに心当たりがある。それを一人で抱え続けるのは苦しいと思う」
彼はきっと、凶悪犯を説得するようにドア越しに自分に語りかけている。変わってしまった息子に為す術がない父と母は、それを黙って見守るしかない。
窓から射し込む日差しが眩しい。今日は一日、暖かな日になりそうだ。
「どこまで力になれるかわからないけれど、良かったら僕と話をしてくれないだろうか」
この穏やかな日に、うちでは凶悪犯を謎の青年が説得しているのかと思ったら、少しだけおかしかった。
続きます。言うの忘れてましたが、このお話13万文字ほどある話で70回くらいで連載予定です……。ゆっくりお付き合いください。