雪解け水 4章の2
前回のあらすじ:志歩さんの家族……
「脳波?」
思わず聞き返してしまった。診察室は今日も一人で入った。湯沢先生が頷く。
「そうです。それとMRI。接触性感受症候群は精神疾患と混同されたり、中には実際に併発してしまう方もいます。客観的なデータを揃えることにより、疾患の区別とグレードと、治療や研究の評価をしていかなければいけません」
「君は、志歩が感受症候群だと判断したから特例として検査は後にしてたんだ。患者同士は、誤解なく心のやりとりや、感受したことを聞き取れる。僕らには確認できないし、疾患の特性上、積極的に行われることはないが、明確な判断基準の一つにしてもいいだろうとイーディも言っている」
川島先生の説明には知ってる人たちの名前が出てきて安心する。このまま主治医が湯沢先生になってしまうのか少し心配だったが、どうやらそれはないらしい。少なくとも今は。
「人に触れることはないようにしますし、私も付いてその場で確認するようにしますので、そうした負担はないと思いますが、もしその気になれないのなら今は見送っても構いません」
「あれなら、志歩に相談してきてもいいが。外いるだろ?」
「やります」
直哉の即答に先生たちは顔を見合わせた。恥ずかしい。
「で、当日はワックスとかつけてこないでね。頭にクリーム塗るから」
「頭にクリーム!?」
衝撃をそのまま口にしたら隣にいた志歩が顔を逸らして口元を抑えた。秋野さんは苦笑いを浮かべて続ける。
「クリームって検査用のね。頭に電極をつけて調べるの。それが結構とれにくいんだけど、うち、洗うところないから、申し訳ないけど、そのまんまで家に帰ってもらうか……」
「そのまんま!? 頭にクリームつけて!?」
ついに志歩が吹いた。肩を震わせる。秋野さんにちょっと落ち着いて、と釘をさされて顔が赤くなる。だけど、久しぶりに志歩が笑っているようでなんだかほっとした。
「……志歩さんは脳波とかそういう検査したことあります?」
志歩が会計に向かう前、直哉は意を決して話しかけた。直哉の心とは裏腹に「あるよ」と志歩はあっさり返してくれた。
「だいたい二、三ヵ月に一度くらいかな。髪ホントべったべたになるから、それで髪の毛切った」
「短くしてたんです?」
「うん。でも僕も君とおんなじで、自分で無理矢理切った。ともるに後ろ見てもらってやったりもしたけど、たぶんガッタガタだったと思う」
ともるさんの名前を出しながらも志歩は笑った。なんだか力が抜ける。あれから、志歩には少し近寄りがたくなっていたから。
「……僕は大体母親と一緒に来てた。父親のときもあったけど。お金さえなんとかしてくれれば、多少何かがあっても我慢して行く気だったけどさ、親は自分たちの目から僕を離したくなかったんだろうね」
ふいの打ち明け話に耳を傾けるしかない。両親のことはあまり良い感情を抱いてないと言ったが、語る志歩は穏やかだった。
「君とは逆だね。一人で行きたいのに、一人では行かせてもらえなかった」
「あ……」
直哉の言葉を待たず、志歩はバックに手をかける。
「これから、いろんなことがあると思う。僕は出来る限り君の手助けをしたいけど、どうしても手が届かなくなることもあると思う。……僕に頼るだけじゃ、ダメだよ」
優しく微笑む。はじめて病院へ来た日、不安に立ち竦む自分を励ましてくれたことを思い出した。
「案外、君の方から僕がいなくても大丈夫って言ってくるかもね」
志歩は直哉を残し会計窓口へ向かった。
無いです。それは無いです。大丈夫という日がいつか来たとしても、志歩さんのこと、自分がいらないなんて思う事ないです。志歩さんの方こそ――
届かない声を背中に送ることが急に虚しくなって、直哉は椅子に座った。
自分たちにはいつも物理的な距離がある。それは、志歩が直哉を守るためにはじめたものだったが、いつしかお互いを守るためのものになっていた。同じ病気の者同士、わかりあって決めたはずの定めた距離が、今は見えない壁のように立ちはだかる。姿はそこに見えるのに、決して届くことも触れ合うことも。
直哉は手袋をした自分の手を握った。思い切って触れたら、案外何事もないんじゃないか。布越しでも、コートの裾でも……
「ね、今の人カッコよかった」
「は? あんた何見てんの?」
「や、あそこの。紺色のコートの人。ほら、結構イケメン」
「いや、あんた実習来てんのによくそんな余裕あるね」
「え、見てよ~」
……見てます。志歩さんじゃん……
直哉は過行く看護学生に心の中で返事をした。自分が悩んでても、世の中はおかまいなしに進んでいく。直哉は小さく息を吐いた。
まぁぐずぐず悩むより良いか……
看護学生たちは小さな笑い声をあげながら外に向かう。時間的にはお昼だろう。直哉は看護師になるという選択肢を考えたことはなかったが、一人閉じこもって将来を色々と考えるときによく目にする職業であった。
……看護学校って三年か四年? あ、でも高校出てすぐ働く人とか思えば、一応学生してるのか。……すごいな、みんな。人生はっきり決めて……
志歩のことを一旦頭の隅に追いやれば、今度は自分の置かれた現実が見えてくる。湯沢先生の研究に参加することは決めたとはいえ、じゃあ将来はともるさんやイーディのようになれるのだろうか。
直哉は思わず頭を振った。こんな弱くてふにゃふにゃした自分が、そんな世界にいけるようには思えなかった。だからと言って、志歩みたいに普通に勤めるのも全く想像がつかない。頭を抱えたくなる気分で下を向いた。
――ん?
何か落ちてる。紙切れ。
顔を上げると、先程の看護学生と同じ制服を着た女性が歩いていった。この人だ。
「あの」
声が小さかったのか、掻き消されたのか、学生は振り返らない。
「あの!」
学生は足を止めた。あたりを見渡し、振り向く。直哉は紙切れを手にしようと思ってためらった。四つ折りにされた紙は直哉には小さく見えて、これを手渡したら学生の手に触れてしまう気がした。
「これ……」
指を指す。やりながら、これではまるで汚いものを示しているか、偉そうな奴だよなと思った。でも、いつもの自分を変えられない。一瞬驚いたような顔をした学生が、けれど指摘されて近づく。仕方ない。変な人と思われても別にいい。不用意に他人に触れてしまうリスクを負うことの方が怖い。そう思ったときに志歩の声が聞こえた。
……僕に頼るだけじゃ……
直哉は息を吸った。学生が腰をかがめる前に、落ちた紙を拾い上げた。
「そうですか?」
情けないことに手が震えた。だけど、震えてることには意識は向けない。そっちに気をとられたら、自分の心の方も乱れてしまう。極力、隅を持つ。一度自分で取れと言う態度をしておいて、彼女はますます変な奴だと思ったかもしれない。でもいい。構わない。それとこれは別。考えない。落ち着いて……心を鎮めて……感覚を切るように……
「あ、そうです。ありがとうございます」
学生はルーズリーフを手にとると、直哉の顔をみた。手が震えてるのをおかしいと思ったのだろうか。それとも、屋内で手袋をしてる姿を変だと思ったのだろうか。心の声は聞こえなかったが、聞こえてくるようだった。もう互いの指先は十分な距離をとっているというのに。
「……あの」
学生が何かを言おうとしたときだった。
「ちほちゃーん?」
呼ばれて学生が振り向く。別の看護学生だった。先の学生たちといい、いくつかのグル
ープが存在するのだろう。
「あ、今行く。……ありがとうございます」
少しだけ、まだ何かもの言いたげだった気がした。けれどもう、心の中は込み上げる達成感の方が占めていく。
すごい。やれた。やった。
跳ね上がる呼吸を納める。手袋の下の掌は汗をかいてるような気がした。でも、嬉しかった。自分が一歩前に出たようで。
看護学生の後ろ姿を見送る。ちほ。志歩と似た名前だったことがくすぐったかった。
続きます。明日の投稿は12時20分にしようかと思います。お話の時間内に合わせて投稿するこのパターン、あらためて何時ごろ…?って考えるので私は地味に時間かかるのでおすすめしません笑 あと自分的にこの時間より別の時間のほうが自然だったかな~とか今頃になって出てくる笑 でも片方を優先すると片方が不自然になってしまったり。物語を書くのは度胸も必要ですね