雪解け水 1章の2
前回のあらすじ:知らない人が夜中に突然うちに泊まることになった
少し早く目が覚めた。昨夜のことは覚えてる。青年に会わないよう、慎重に下へ行こう。そう思って、階段から様子をうかがって目が合った。口だけ開いてしまった。
「おはよう」
青年の方は軽く直哉に手をあげた。手袋はしてない。細長くて綺麗な手だと思った。
「僕もう顔洗ったから、あいてるよ」
心を読んだようにそういった。彼が奥に消えてから十秒。本当に消えたかどうか、案外その辺にいるんじゃないかと疑いながら直哉は慎重に階段を降りる。青年はいなかったが、代わりに母がいた。
「おはよ……」
今度は声が出た。おはようと母は返すと、声をひそめた。
「ご飯、降りてきなさい。離れて食べればいいでしょ?」
朝から叱るように決めつけられて直哉は小さく顔をしかめた。けれど、母はあきらめずに続けた。
「……ダメ?」
ご飯はいつも、作ってもらったものを自分で運んで自室で食べている。『お互い』の身を守るためにたどり着いたルールなのに、ふと、可哀想なことをしてると思った。小さな子どものような目をしている母を、喜ばせてやりたかった。
「……いいよ」
「うわー! 悪い悪い。それじゃあタクシー嫌がっただろう……って、ああ、お金出すよ」
「いや、村上さんが払いましたよ。僕が出しますって言ったけど、押し切って『釣りはいらねぇ!』って」
「えぇ……」
「奥さんにも……すみません、話してありますから」
「あぁ~」
父は顔を覆って項垂れた。でもなんだか楽しそうに見えた。少し驚いていると青年が、直哉に気づいた。
「あ、おはよう」
「……ざいます」
二度も挨拶をされるとは思わなくて、また直哉は上手く声が出なかった。何か言われたら、一応今度はちゃんと返事をするつもりだったが思う様にいかない。父と母以外の人と言葉を交わすなんて何カ月ぶりだろうと思って、父を見る。弱々しい挨拶は不満足だったが、自分が食卓に現れたことは満足以上に驚きだったのだろう。複雑な顔をしている。
「藤田、これが息子の直哉だ」
「お邪魔してます。僕は藤田志歩って言います。お父さんの下働きだよ」
「おい、言い方」
父は冗談に訂正を求めたが、母は逃さなかった。
「やだ、あなたいじめてないでしょうね」
「いじめてないよ。おい、藤田」
青年が笑う。父と母も笑っていた。直哉は、その光景を不思議だと思った。こんなに重苦しい家の空気を、青年は取っ払ってしまった。これが普通なんだ。休日とはこんなふうに穏やかに始まるものだったのだと、直哉は見せつけられた気がした。
「ご飯出来たよ」
父の向かい、直哉の隣が青年の座る位置だったが、よそ者は自分のような気がした。母には悪いが早々にすませて部屋に戻ってしまおう。そう思って、ふと青年が白い手袋をしていることに気づいた。あれ、と思ったが父と母も何も言わないので直哉からも何も言わない。
「朝はこれくらいだけど、お昼はご馳走させるから。遠慮なくいってね。いいよ。お寿司とか鰻とか連れってもらうさ」
「おい」
「だって、当然でしょ。あなた、運んできてもらったんだから。ねぇ」
「良いのおごってもらいます」
にんまりと青年はうなづいた。他愛もない会話をする三人に疎外感が募る。やはりこの家で異質なのは自分だ。そう思い、視界の端に白い手袋が映る。
でも、これはこれでやっぱり変だった。
「これ?」
ふわっと青年が言った。見つからないようにしたつもりだったが、やってしまったようだ。直哉の気まずさとは別に、青年は軽やかに語った。
「僕、アレルギーでね。手袋して極力保護してないとダメなんだ」
自分が着替えてる間にでも聞いたのだろうか。母は特別驚く様子もなく、黙って青年の話に耳を傾けている。仕事仲間の父も、黙っていた。
「今はずいぶん良くなったけど、昔は全然ダメでね。ちょっと何かに触るとすぐ全身ひどい湿疹が出来たんだよ。一番悪いと呼吸までおかしくなっちゃって。原因物質があまりにも広範囲で、全部特定するにもそれを避けるにも、普通には対処できなくて、こうして手袋を常にしてるのが一番効率的なんだ」
よどみなく話をする。きっと何度もこんなふうに説明をしてきたんだろう。大変だなと思いながら、嘘だと思ってしまった。階段上から見た綺麗な手を思いだす。そんなにひどい病気を持っているようには思えない。でも、ほころびを見つけるよりも早く、彼の話は直哉の心の中に入り込んできた。
目を見て真っ直ぐ。そういえば、こんなふうに人の目を見るなんていつぶりだろうと直哉は思った。もう長いこと、他人はおろか父と母の目ですらまともに見てなかった気がする。逃げられない気持ちと逃げたい気持ちがぶつかった瞬間、告げられた。
「僕も、君と『おんなじように』苦しんできたよ」
続きます。挿絵は2章のはじめくらいまで描いてたんですが、そこらへんで挿絵毎回描くのも結構大変だな…と気づきやめました。あるぶんだけ、楽しんでいってください