雪解け水 2章の10
前回のあらすじ:名前を呼んでしまった。
「着いたよ」
「ありがとうございました」
車を降りて頭を下げる。いつもは母が車の音を聞きつけて志歩にお礼を言いに来るのだが、今日は何かしてるのか来ない。志歩としては保護者に無事送り届けた挨拶をしたくて、覗くように玄関を見つめた。
「降りてこないね」
「良いですよ。大丈夫です」
その方が好都合だった。直哉は志歩に向かい合った。
「志歩さん、本当にありがとうございます。僕、少しづつできること増やしていきます。自分を、取り戻せるように。まだ通院も一人じゃ怖くてできないから、何言ってんだって感じだけど……選択肢を、もっと増やしたいんです。これしかないんだじゃなくって、これが良いって。そういうふうに自信を持って生きれるようにしていきます」
少し大きく開いた志歩の目。その目に自分はどれくらいに映ってるのだろうか。まだ弱くて守らなければならない子どもだろうか。できればその目には、同じ仲間に見えていると嬉しい。
「……うん。それが良いと思う」
慈しむような笑みにみえた。それでも、志歩に肯定してもらえたことが嬉しくて直哉も笑う。柔らかな微笑みのまま志歩は続けた。
「でも、無理はしないで。傷つく必要がなければ、傷つかないほうがいい。辛い思いは、わざわざしなくていいから」
「はい」
「来週はまだついてって良い?」
少しおどけたように首をかしげる。もちろんと頷くと、志歩はわざとらしく胸に手を当てた。
「良かった。もう用済みかと思った」
「いや、そんな……!」
言ってると母が顔を出した。すみません。ちょっと電話してて……ああ、大丈夫です。今着いたところです……いつもありがとうございます。あ、ねぇこれ持ってて。今日パン屋行ってたくさん買ってきちゃったから……
ぎっしりとした袋を出されて一瞬言葉を失う志歩に、いつもなんとか言葉以上のお礼を伝えようとする母。夕飯にその話を聞いた父はそれを笑い、直哉はそれを横目で見ながら、部屋で一人ご飯を食べながら志歩と会った一日を思い出す。小さくて静かだけれど、心地よい時間だった。
この時間が、直哉は日常になっていくと思っていた。
診察終了後の待合室、ふいに携帯が鳴った。志歩だった。画面を見て眉を寄せ、悩んだようにタッチペンで自分の頭を一つ突いた。
「出てきて大丈夫ですよ」
「大丈夫?」
「大丈夫です」
「じゃあ、ごめん。僕が帰ってくるまで動かなくて良いから」
言って、廊下の向こうに消える。先週の診察を最後に、父の帰りが遅い。志歩も仕事がいそがしいのだろう。今日も待合室の席は隅の観葉植物の隣をとれた。それに通院するようになって一ヶ月。気をつけていれば案外人とぶつからないこともわかってきた。
先週、自分は志歩に宣言した。隣に彼がいないことは、ちょっと緊張はするけど大丈夫。大丈夫。息を吐いて、習った通りに自分を鎮める。手袋をした手に剥き出しの心を鎮める。これが直哉のやり方だった。大丈夫、大丈夫……
「六〇五番でお待ちの患者様ー」
自分だった。顔をあげると秋野さんも直哉しかいないのかという顔をした。
「あ、じゃあ志歩くん帰ってきたら声かけて」
「あ、いえ」
気づいたら歩きだしていた。ソファーに並ぶ足、そわそわしてる子ども……気をつけて触れてしまわないように注意しながら直哉は受付まで向かった。秋野さんの顔が驚く。
「大丈夫?」
「平気です。もともと触れなければ別にどうってことないんだから」
秋野さんが頷く。じゃあ、と次回の診察日と会計案内をされた。いつも通りだ。ただ、自分で自分のしたことに心臓がドキドキしてる。秋野さんの説明は半分くらいしか入ってこない。案内票のライトグリーンの紙に胸の前で手を上げたような小さなカードがクリップでつけられている。その下にNTMと書いてある。Do Not Touch Meの略だ。
直哉のような他者との物理的な接触に問題のある患者のためのサインだと聞いた。大丈夫。これがあるから、会計の人もわかってくれる。言い聞かせるように心の中で唱えた。 ……大丈夫、後は階段を使って壁伝いに歩いていけば……
「すみません。後ろ通ります」
驚いて振り向くと点滴を持って車いすに乗った入院患者がいた。患者との距離はあったが、点滴棒が確かに直哉のすぐ側にあった。患者は自分ではその点滴棒を持てないのか、声をかけた看護助手が移動させようとする。その手が迫ってくるように見えて直哉は慌ててしまった。
「あ、村上くん……!」
秋野さんはその後ろを見ていた。受付付近。入口を封じられてその人はソファーの間を迂回してこちらに来ていた。
「あ!」
驚いた声で男性だと気づいた。瞬間、彼にぶつかり声が流れる――
――痛っ。しまった。うお、ソファー。ぶつかった。子ども。高校。中学。大丈夫か。こっちも見てくれ。危ない。この子が感受症候群なら――
身を庇う様に振り向く。直哉には初老の男に見えた。男の目は尋常ではない直哉の様子に驚き、更に直哉の手をみて見開いた。
「村上くん、先生、大丈夫!?」
秋野さんの声で正気になれた。とにかく隅に寄ろうとする。でも、今度は秋野さんに触れそうになって、また身を庇う。その様子を男はソファーに片手をつけながら見ていた。
「……君か。新しい患者は……」
ざわつく中で直哉は確かにその声を聞いた。張り付くような汗が滲んだその時。
「直哉くん、大丈夫か」
騒ぎの中をかいくぐるように志歩が現れた。直哉の様子を確かめようとして近づいて、あの穏やかな顔が凍った。
「……湯沢先生」
「志歩……」
呟くとようやく男は姿勢を直した。先生とは呼ばれたものの、コートにセーター、職員である名札もつけてはいなかった。志歩の眼差しが刺すようなものになっていく。男はその眼から逃れるように直哉に声だけをかけた。
「すみません。大丈夫ですか?」
少しぎこちなくなってしまったが頷くと、男は一礼して診察室の中へ入った。志歩は険しい表情のまま秋野さんへ質問する。
「……いつからこっちに来たんですか」
秋野さんはすぐに答えなかった。けれど、返事を聞くまでは引く様子もない志歩に負けたように口を開いた。
「もう、ここの先生じゃないから……今日は川島先生と話すことがあるんだと思う」
「それ……」
「秋野さん、7Aの看護師さんからお電話です」
何か言おうとした志歩を遮るように受付の人が秋野さんを呼ぶ。秋野さんはごめんねと言って診察室の中へ戻った。
手袋をした志歩の手が強く握られる。直哉は一人、取り残されたような気分になった。
続きます。
2章はこれで終わります。閲覧などいつもありがとうございます!




