雪解け水 1章の1
<前回のあらすじ>
高校生の村上直哉はある晩、父の会社の部下である青年と出会う
名前も知らない青年は、直哉の隣、手を伸ばせばすぐ届く距離に座った。グレーの手袋をした手だけをそっと確認して、横たわる父に視線を戻す。散々大声で吠えていた父は、意味不明の言葉をつぶやいてようやく静かになった。口を開けて、深い呼吸を繰り返す。叩いても絶対に起きないだろうと思った。
「寝ちゃったね……」
「……はい」
もう一度手を。それから紺のコートを。視線を滑らせ、うかがう様に青年を見る。少し明るい髪の、品の良さそうな顔立ち。
送ってくれただけでもありがたいのに、玄関先で寝入ってしまいそうな父を家の中に運んでくれた。息子である自分が父に触れようともせず、母だけが頑張って倒れた成人男性を引き上げようとしてる姿を見れば、当然だったのかもしれない。でも、それでも良い人だと直哉は思った。
たぶん、きっと父の会社の人だろう。誰からも好かれるんだろうなと思って、そっと、青年と距離をとった。
「ね、」
どきんと心臓が跳ねた。気づかれないようにしたつもりが、気づかれてしまったのだろうか。失礼をしたと思いながら、直哉は顔をあげる。マフラーだけを外した青年と目が合った。
「さっきはごめんね。その……」
綺麗な目をしている。髪の色と同じ色をしていて、ちょっと見入ってしまう。戸惑いと好奇心。そして、哀れみがその目の中で揺れた。
「驚いたよね」
どっと肌が粟立つ。息が荒くなる。警鐘のように心の声が頭の中で響く。怖い、怖いと叫ぶ自分の声に混じって、目の前の青年の声が再生される――この子は――
いや、あれは突然のことに自分が起こした気のせいではないのか。そう自分をなだめながら、もう一人の自分がはっきりと告げる。
仲間だ。
この人は自分と同じ『仲間』。
確認はしてないが、そうだとしか思えなかった。だけど、そんな人がいるのだろうか? 確かめる方法はある。でも、それは絶対嫌だった。思考と記憶が交互に繰り返し、心臓を責め立てる。呼吸が早くなる。青年は直哉を見つめて、言葉を探して、探して、ふと面倒になったのか唐突に告げた。
「手、触ってもいい?」
「え」
喉を締められるような声がでた。汗がにじむ。それは許されることではない。もし、彼が仲間だったとしても、いや、仲間だからこそ、それは許されない。仲間ならわかっているはずだ。どうしてそんなことを言うのか。
目の前の優しそうな青年がどろりと溶けて黒い塊のように見える。嵐に揺れる木々のように悪夢がよみがえった。
……気持ち悪い。変だよアイツ。来ないで欲しいわ。被害者ヅラしてさ……呼吸は短く、過呼吸に陥りそうになっていた。
「ごめんなさいね。お待たせしちゃった」
触れようとした手は、さりげなく青年自身の腕をつかんで戻った。
母がお茶を置く。数は二つ。父の分だろうが、その顔をみて声をあげた。
「え、寝ちゃったの? やだ、最悪……」
ありがたかった。母が来てくれて本当に助かった。少しそのお茶が欲しかったが、黙っていることにした。
「ホント、ごめんなさいね。大変だったでしょ。こんな酔っ払い連れてきて……」
「いえ、別に。課長、なんか妙に飲むから、僕も早めに止めれば良かったんですが……」
その説明に勝手に胸が痛んだ。思い当たる節はある。母も、含んだ笑いを浮かべた。
「ああ……ちょっとストレス溜まってたのかな……」
「課長、大変ですものね。僕もみんなも、いつもお世話になってますから……」
「ううん。この人、自分で結構溜め込む性格なの」
いたたまれなくて立ち上がる。もういいだろう。父の恩人に挨拶をしないのは無礼な気がしたが、そういう気分でもなかった。
久々に話せる相手が見つかったせいか、母はどこか楽しそうだ。青年はそんな母に合わせるように笑顔で応えている。すごいな、と思うと同時に、やっぱり彼を『仲間』だと思ったのは気のせいではないかと思った。
だって、もし『同じ』なら、こんな風に笑うことなんてできない。
言葉を交わす。思いを告げる。そして、その先――そう、彼は普通に父に触ってた。肩を貸し、しっかりとずり落ちそうな人間を支えて現れた。とてもじゃないけど、自分にはできない。
これはきっと、間違いだ。
背を向けた瞬間、母が手を鳴らした。
「あ、ねぇ。あなた今日どうするの? 終電もうないでしょ?」
「ああ、どっかそのへん泊まります。このあたり、漫画喫茶とか……」
「ダメダメ!」
青年は驚いた。直哉も驚いてしまった。
「うちの人のせいで、そんな申し訳ない。いいよ、今日うち泊まっていきなさい」
「いや、それこそ申し訳ない……」
「いいのいいの。もとはこの人のせいなんだし、うち泊まっていって。布団もあるし、明日、なんか美味しいもん食べさせてあげるから」
「や……」
答えを探すように手袋をしたままの手をさまよわせる。母の申し出に困ってしまったようだが、無理もない。自分だってまさかそんな提案を母がするとは思わなかった。よほど、この人を気に入ったのだろう。部屋へ戻るタイミングを失って二人を見守っていたが、ふとこちらに振られた。
「泊まってもいいかな」
やだ。
素直に言ってしまいたかった。この人を入れてしまったら、安全な場所には居られなくなる気がした。だけど、そんなこと言えるはずもなく。
「……どうぞ……」
安堵の声をあげたのは母だった。じゃあ、布団用意するね。すみません。いいのいいの。
……リビングへ向かう声を聞きながら、嘘をついた重苦しさをため息と共に吐き出す。もう用はないだろう。自分も早く寝たい。疲れてしまった。
部屋へ向かいながら、ふと、重なり合った手の重みを、形を思いだす。気持ち悪かった。
続きます。
このお話は完結してるので、毎日投稿が可能なんですが良い時間とかあるんですかねぇ…。まぁ長いお話なのでゆっくり良い時に読んでください。