雪解け水 2章の2
前回のあらすじ:ついて来ないでとは言ってない。
それから志歩は診察のときも距離を置くようになった。そんなつもりはなかったが、やはり青井先生の言葉が効いてしまったのだろうか。
一人で行く? と尋ねられて、ついてきてほしいとは言えなかった。診察室は安全な場所なのだから。それに、何より自分が望んでいたことではなかったか。
「村上くんは、治療を進めてどうなることが目標ですか?」
川島先生に質問されて、すぐに志歩の姿が浮かんだ。
「藤田さん……」
言いかけて言葉が詰まる。通院も一人でいけない今の自分と志歩の姿はかけ離れていた。けれど、川島先生は直哉の気持ちを察したのか柔らかく続けた。
「いいですよ。目標ですから、遠慮せず」
川島先生も人の心を読むことができるのだろうか。恥ずかしさを隠すように直哉は先生を直視しないで続けた。
「……藤田さんみたいに、なれるのがいいです。また普通に……学校とか行けたら、嬉しいです……」
先生は小さく何度かうなづいてくれた。
「そうですね。以前は問題なく日常生活を送れていたのなら、そこにもう一度自分を持っていきたいでしょう。志歩は良い目標だと思います。ですが、いきなり彼のような生活を完璧に目指すのはハードルが高すぎるかもしれません。貴重な若い時間を、ご自身の意思とは別に、他の人とは違う選択肢をとることは君もご両親も心苦しく思うことが多いかもしれません。ですが、焦らずやっていきましょう」
今度は直哉が先生の言葉に小さくうなづいた。結んだ唇に力が入る。ちょっと怖い先生かもと思ったが、川島先生も優しい人なんだなと思った。
診察室を出て志歩を探す。目が合った。
「お疲れさま」
労いの言葉をかける志歩を見下ろしながら、やっぱり彼がいなくて良かったと思った。側にいたら、川島先生に正直に志歩のようになりたいとは言えなかったかもしれない。
でも、秋野さんから案内票を当然のように預かる志歩を見ると心は複雑に揺れる。だからといって、作業室へ向かうまでの道のり、彼と並んで歩くことはできない。診察室を出れば、外はまた直哉の病気のことを知らない人たちばかりがいる空間だ。同じ病気なのに、
志歩は前。自分は後ろ。
紺色のコートの背中を黙って見つめる。
「それじゃあ、行くね」
作業室につくと、志歩はどこかに行ってしまった。作業室も、安全な場所。わかってはいるけど、ぽかんと開いた気持ちがそこにあった。
「日記はつけてみた?」
「はい」
青井先生に言われてノートを出そうとすると、見せなくていいよと制止され、見てほしかったら見るけど、と冗談を言われた。日記も症状と心身の調子を把握するために、どんな形でもいいからつけることをすすめられた。面倒だったらやめてもいいし、見せる必要はないから好きに書いていいとは言われたが、何か必要あるかもと持ってきていたのだ。
「何か思うことは? 言いたいこととか、ある?」
「特に……ないです」
首を傾げながらまた心に志歩の後ろ姿を思い浮かべた。他にないのかと思いながら、ないから志歩のことを思うんだと自分に言い聞かせた。
「いいよ。言いたくなったら私でもいいし、川島先生や秋野さんたちでもいいし、志歩くんに聞いてもらうのも、いいと思うよ」
一瞬返事が遅れた。
「はい」
「じゃあ、呼吸法の練習しようか。どう? 家でもやってみた?」
「一応……」
困ってしまった。ここから先は、志歩のことを考えたくなかったのに。
「考え事をしないって、なかなか難しいでしょ。意識しまいとすればするほど、思考はどんどんそこに集中してしまう」
「……はい」
だから考えたくなかったのに。
「案外、何かに没頭できてる方が楽なんだよね。私が思うにネットに没頭してしまうのも、ある種の『考えたくない』っていう気持ちが働いてるからじゃないからかな~って思うんだよね」
言いながら音楽をかけ、部屋の照明を暖色に変更し下げていく。向かいに座ると軽く手を合わせた。
「はい。じゃあ、目をつぶってでも良いし、つぶらなくてもどっちでも、自分の良い方法で、ゆっくり呼吸をして」
直哉は一度ため息のように大きく息を吐いた。そして、それから目を閉じた。川の流れる音とお寺でお坊さんが鳴らすような小さな鐘の音がする。
「頭に浮かんできたことは、今はいったん流してね」
……無理。
念のため、三回くらいは青井先生の指示に従って深呼吸をしたが結果は思ったとおりだった。どうにもこうにも、志歩のことがいっこうに頭から離れない。学校や社会から離れてしまった今、両親以外で接点を持つ彼の存在は自分の中で大きくなってきている。まして、同じ接触性感受症候群の人間だ。志歩について知りたいことは山ほどある。
だけど、それは踏み込んではならない部分に立ち入る気がして怖かった。病名もわからず、症状に振り回された中学の記憶がそうさせるのだろうか。
――親にバレた
いや、あの言葉には確かな棘があった。通院を続ける一方、志歩は自分と両親の間にも入ってくれる。その都度、慰めるように父と母に『近い人ほど言いづらいこともある』『本人が頼ってきたらお願いします』と投げかける言葉を一体どんな気持ちで言ってるのだろう。
「じゃあ、指を一つ一つ折り曲げて……どっちの手からでもいいよ……」
この手を使えば、志歩の気持ちはわかってしまう。それと同時に、知ってはいけないことが山ほど流れ込んでくるのだろう。同時に、志歩も知ってしまう。直哉自身も知らない心の深いところを――耐えきれず目をあけてしまった。先生は気づいてないのか、気づいてなにも言わないのか、声をかけ続けていた。それを良いことに、深く息を吐く。
困った。今日は集中できそうもない。
続きます。
フリーメモって書いても、たたまれているんですね。私みたいなちまちま上げしてると、そのときに気づいたことメモしても結局忘れそう……メモは別にした方が良さそうですね。




