プロローグ 〜 一週間前 深夜 〜
1週間ぶりの投稿です。
キグロスの最西端の少し手前。隣国のフランデンゾルスとの国境を接する辺境にこの都市はあった。隣国とのやり取りに欠かせない大きな街道が通るのが、ここフラスルの特徴である。にもかかわらず、この地域の一角にオンボロな木造の家が建っていた。その室内は深夜にもかかわらず、何本も蝋燭が灯され十分な明るさが確保されていた。
そこに真夜中だというのに訪ねてくる者がいた。扉の前に立つと静かにノックする。
ここはしがない行商人の仮住まい。訪ねてくる物好きなど滅多にいない。故にその来訪者が誰か考えるまでもなかった。が、念のためだ。ドアをノックした者の正体を探る。
「誰だ」
扉に張り付いて向こう側に耳を澄ます。わずかな呼吸音、それが一人分だと分かる。
「私ですよ。エドワードです」
その声は一週間前に盗みの現場で遭遇したものに間違いない。重厚感のある低い声だった。しかし、そう易々と入れるわけにはいかない。最悪の場合を常に想定するのがこの仕事のセオリーだ。先日やってきたエドワードの先兵には合言葉は伝えている。後は確認を取るだけだ。
「おう、エドワードか。待ちくたびれたぞ……トリグラフは」
「西南の畔に」
「キグロスは」
「……」
「どうやら別人のようだな」
「私に間違いありません。ただ少々私に相応しくない合言葉なもので」
躊躇う客人に気づかれないようオズワルドはほくそ笑んだ。きちんとエドワードに伝えてくれていたようだ。
「言い訳にしか聞こえないな。もう一度確認だ。キグロスは」
「……はぁ。ドブネズミのような国」
合言葉が合致した。ドアを開け放ち、エドワードと名乗る男と初対面する。
髪は薄く、垂れ目で、鼻は低い。口は意志が弱そうにヘの字になっていた。鼻下の左右に伸びる少々長い髭以外これといって特徴のないどこにでもいそうな中肉中背の男が眼前に立っていた。しかし、幸の薄そうなその顔とは打って変わり服装は華美ではないものの高級感漂うものだった。
汚れひとつない白いワイシャツ。赤いパンツとそれを締める革製の黒いベルト。季節の変わり目で冷えてきたのもあるのだろう。首には赤いマフラーが大きな蛇のようにぐるぐると巻かれていた。
そのあまりにパッとしない姿、そして素人同然の雰囲気にオズワルドは拍子抜けした。こちらの心配は何だったのだ、と内心苛立ちが込み上がってくる。そして、自身の服装を見つめ、苛立ちがさらに強くなる。
みすぼらしい自分とは真逆だ。少し黄ばんだ白いシャツに、傷んだハーフパンツを履いたオズワルドはそう思うのだった。
八つ当たりでは決してないと弁明させてもらいたい。決して。ただこれから盗みの依頼を受けるのだから、誰かに見られることなどあってはいけない。これは不可抗力なのだ、と考えながらマフラーを引き、強引にエドワードを家へ連れ込む。無理やり引っ張られたエドワードはなす術もなく床に転がった。
「何をするのです。私が何をしたと言うのですか」
その発言を無視してオズワルドはすぐにドアと鍵を閉めた。そして、転がったエドワードに顔を向ける。
「約束通り一人で来たようだな」
「当然です。依頼主に不快な、待ってください。その椅子をどうするつもりです。ひぃ」
エドワードは眼前に猛スピードで椅子が迫る恐怖に目を閉じた。
椅子は転がるエドワードの顔の横すれすれに振り下ろされた。床に打ち付けられる音と振動はその容赦の無さを伝える。
「立ち話もなんだろう。座ってくれ」
「え、ええ」
進められるがまま、エドワードは椅子に腰かけた。乱れたマフラーの位置を調節する。その時もエドワードはオズワルドから目を離さない。次にどのような敵意を向けられるのか、警戒せずにはいられないのだろう。オズワルドに浮かぶ怒りの原因が何かと怯えながら考えを巡らせていた。
「で、依頼だが。一体何が欲しいんだい」
オズワルドはエドワードと対面になるよう椅子を置いて、それに座した。つまらなそうに姿勢を崩し、両手を後頭部に回す。これが行商人なら落第点だ。来客に見せる態度ではない。しかし、行商人を装ったとしても、本職は盗人だ。ならばこの対応はオズワルドらしい。
エドワードは危害を加えられる心配がないと判断し、胸を撫で下ろす。
「単刀直入に言いますと」
エドワードは布袋を取り出し、前に差し出した。
オズワルドはそれを受け取ると中身を確認する。中には通行手形と民宿の予約状、そして、五百万ガルの紙幣。
「これは……?」
「奥にもう一枚ありますよ」
そう促されるまま袋の奥に手を入れると、中に小さな紙切れが入っていた。その紙には、フランデンゾルスの言葉で一言、《トリグラフの楔》と書かれていた。
「おいおい、冗談だろ」
「いいえ、こちらは真剣です。そちらはキグロスにたどり着くまでに必要なものです。どうぞお受け取りください。それと通行手形です。それがあれば国境の検問は難なく通過できるでしょう。後、その紙幣は前金です。ご自由にお使いください」
「いやいや、待て待て。トリグラフの……」
オズワルドが言い切る前にエドワードは前に手を出して制した。
「それ以上はいけません。口にすることは許されませんよ」
明らかに先ほどまでの弱々しさはない。エドワードの鋭く研ぎ澄まされた雰囲気は続きを喋らせまいとしていた。
「依頼はそちらです」
「いや、待ってくれ。お前はこいつが何か分かってないのか。簡単にいってくれるな」
「重々承知しております。故に私はあなたにお願いしにきたのです。そう、他ならぬあなたに」
「お前……どれだけヤバいものか知ってて言ってるんだな」
「ええ、故にあなたなら燃えるんじゃないですか。これほどまでに面白い仕事、早々目にしないのでは。そちらの依頼を達成してくださるのであれば、こちらも相応の対価を支払いますよ」
「相応の対価ね。それじゃ、一億なんてどうだ」
金持ちの顔が歪む姿が見たい。その一心だったのだが。
「いいでしょう。では、報酬はその通りに」
逆に面食らったのはオズワルドの方だった。
一億ガルだぞ。
確かに達成困難な依頼だろう。しかし、それでも一億は破格の依頼料だ。必ず支払われる保証もない。しかし、しかしだ。前払いだと簡単に五百万ガルを手渡した男の言葉だ。信じてみるしかないだろう。それに瞳を見れば偽りない言葉であると分かる。エドワードはどうやらオズワルドに絶大な期待を寄せているようだ。
観念したようにオズワルドは手の内に広げた中身を全て布袋に戻し、布袋をポケットにしまった。
「任された。必ず渡そう。達成までの期間はこちらで指定しても構わないか」
その返答にエドワードは表情を明るくする。
「素晴らしい。ええ、構いませんとも」
「そうか。なら、一ヶ月後だ」
「承知いたしました。それでは、健闘を祈ります」
エドワードは早々と帰り支度を始めた。
「なあ、エドワード。それを、どうするんだ」
依頼主には極力関わらない。そう誓っていたが報酬の巨額さに聞かずにはいられない。一億は冗談で提示した金額だった。向こうがいくらでも支払うという意思を示したこともあり、一種の悪ふざけだったのだが。それを承諾したのには驚いた。だからこそ、何かあるのだろうと勘ぐってしまう。
振り返ったエドワードは鋭い眼光で睨みつけてくる。
「それは……聞いてどうするのです」
「いや、あんなもの手に入れたとこで百害あって一利なし、だと思ってな」
「そうですか。オズワルド君、私は君と良好な関係性を築きたいと願っているのです。ですから、それを破綻させかねないことに首を突っ込むことはおすすめしませんよ」
エドワードは手を止め、殺気をむき出しにして威圧する。これ以上聞くな、と釘を刺しているのだと感じた。
深入りは禁物だ。深入りして命を落とした仲間は数知れず。ここは黙るに越したことはないだろう。
「呼び止めてすまなかったな。もういい」
部屋に漂う重たい空気は消えた。
「ええ、ではお暇させていただきます。夜分の訪問、申し訳ございませんでした。では、次に会うまで健康にお過ごし下さい。再会を楽しみにしております。良い夜を。健闘を祈ります、オズワルド君」
「そっちも元気でな」
エドワードが玄関を潜り柔和に微笑むとゆっくりと扉を閉めた。
部屋に一人の静寂が訪れた。
「トリグラフの楔……いったい何を企んでいるんだ」
と呟いた時、表情はすでに緩んでいた。心の底から湧きあがる喜びに飛び跳ねる。
「とか、どうでもいいわ。よっしゃーーみんな、五百万ゲット。何もしてないのに五百万。めちゃラッキーだぜ」
振り返り大声を上げると、部屋の奥に鎮座するクローゼットがパカリと開き、中から二人の男が顔を出す。
そのうち一人はオズワルドの師に当たるマードックだ。もう一人はマーレだ。金髪で鼻が大きく、腹が少し出て小太りな印象以外これといって特徴のない男だ。
「おう、聞いてたぜ。今日は盛大にパーティーだ」
「まさかいきなり大金をせしめるとは。さすがはオズワルド。極悪人だな」
「それほどでもないよ。って褒め称えろよ」
「よ、節約上手。安物買いの銭失い」
「うるせえよ。誰がけなせと」
「えっ、節約上手ってけなす場合に使うのか?」
「違うわ。その後だよ、その後」
「ああ、その後は道具がないからまた安物を買うんだろ。よっ! 安物買いの銭失い」
「失った後なんて聞いてねえよ」
「昔からオズワルドは竜頭蛇尾だからな。やってくれると思ったよ」
「なあ、お前。竜頭蛇尾の意味分かってねえだろ」
「ん? 強そうだろ」
「そこは認めるわ」
「よっ! 竜頭蛇尾」
「竜頭蛇尾、流石だ。今日から竜頭蛇尾って呼ぶよ、俺」
「お前らの中じゃ、竜頭蛇尾は尊敬の対象に使うものなんだな。そう思うと何か複雑な気持ちになるが、まあ、いいや。どんどん竜頭蛇尾と呼んでくれ」
「流石だ。言うことから違うな。どんどん竜頭蛇尾」
「さて。どうしようか、どんどん竜頭蛇尾」
「おい、どんどん竜頭蛇尾ってなんだよ。どんどん、いらねえよ」
「何言ってんだ。どんどん竜頭蛇尾」
「悪い。俺の言い方が悪かった。オズワルドでいいよ。それやめてくれ」
「何でだよ。オズワルドはダサいからどんどん竜頭蛇尾の方がいいって」
「お前、それ本人の前でいうか。まあ、尊敬の気持ちで言ってくれてるって言うなら……ああ、好きに呼んでくれ」
「どんどん、始めは盛んであるが、終わりが振るわないこと(広辞苑より)。やっぱり懐が広いな」
「意味を知っていた!?」
パンッ。
その会話を分断するように誰かが手を打ち合わせる。それはジト目で三人を見据える小柄な少女だった。就寝の際に着る青いネグリジェを着込む少女を見て、オズワルドは内心激しく動揺していた。
「パパもおじさんたちも静かにして。もう夜中だよ。マルクとシンが起きちゃうでしょ」
「ご、ごめん。少しうるさくして。本当にごめん」
「パパがうるさいのはいつもだけど、さすがに時間を考えてほしいなぁ。反省してね」
「うん、悪かった。静かにする。起こしてごめんな、フェリチ」
「うん。分かればいいの!」
フェリチと呼ばれた少女はふん、っと鼻を鳴らすとない胸を張って言ってやったという態度を取る。その姿に俺は苦笑いで平謝り。それをニヤニヤと見据えるおっさん二人であった。それに気づいて俺は気恥ずかしくなる。
「な、何だよ。そこ、ニヤニヤしてんじゃねえ」
しかし、二人の男はなおも表情を緩めたままだ。
「へいへい、パパはお静かにお願いしまちゅね」
「そうだそうだパパ。その年で子供に注意されるなんて情けないぞ」
「ちっ、うるせえ。お前らも騒いだじゃねえか」
「パパッ!」
「ご、ごめん」
俺がフェリチに叱られると男どもは大声を上げてゲラゲラと笑った。
俺は恥ずかしくてそっぽ向く。少し顔が熱い。
「笑うな。お前らも娘が出来たら分かるだろうよ!」
男二人は、悪かったと手を前に出して頭を少し下げた。
「仕方ねえ。許してやるよ」
「ねえ、パパ」
フェリチが声をかける。俺は向きを変え、娘と話がしやすいようにとしゃがむ。
「どうした、フェリチ」
「パパ、また仕事のお話してたの?」
「うん、ああ。そうだけど」
「こんな時間に?」
フェリチは疑うような目で俺の顔を覗き込む。
「ま、まあな。ほら、前から言ってたろ。夜、いきなり来るお客さんもいるって」
「マードックおじさんたちも?」
「そうだぜ、お客さんだよ、嬢ちゃん」
ビールジョッキを片手に肩を組み合う男二人。もう何か始まっていた。
「いや、見て分かるだろ。あれはゴミクズだよ、フェリチ」
俺は小声で耳打ちした。
「おい、聞こえてるぞ。オズワルド」
「ふざけんな。同業者だろうが」
後ろからヤジを飛ばす男ども。それに俺は反論する。
「うるせえ。人の報酬にたかりに来るのは客じゃねえ。ゴミだ、ゴミ」
「パパッ!」
「ご、ごめん」
「パパッ、やーめるでしゅー」
「そうだよ、パッパ!」
怒られた俺を裏声で冷やかす男たち。俺は口に人差し指を当て、シーっと吐息を漏らす。
「お、おう」
「すまない」
男たちは反省したのかまたも顔の前で片手だけの合掌をつくり申し訳ないと伝える。
「パパ、パパってさ。本当に行商人なの?」
「な、なな、何で急に。どうしたんだよ」
「そ、そうだぜ嬢ちゃん。オズワルドは行商人さ」
「オズワルドはフェリチちゃんが生まれる前から行商人だ。聞くまでもないじゃねえか」
俺はフェリチの懐疑に戸惑う。男たちもさすがに冗談じゃすまないと助け船を出してくれた。それでもフェリチの顔は一向に晴れない。
「本当?」
「ほ、本当だよ。何で今さら」
「何となく」
「そ、そうか。な、何となくね」
俺は冷や汗を掻いた。なぜなら、俺は行商人なんて大層なものじゃない。ただの盗人だ。
「為替」
「ん? 何をかわせばいいんだ?」
「信用買い」
「信用は買うものじゃないぞ。作るもんだ」
「パパ、本当に行商人?」
「ぎょ、行商人だよ。なな何で。パパはずっと昔から行商人だよ」
「嘘。だって為替も信用買いも商人の常識だよ。私覚えたんだから」
疑いの目でフェリチは俺を見つめる。俺は表情を読み取られないように顔をそらした。
「そうか。し、知ってるよ。知ってるから。もう知り過ぎてあれだから。怖いから」
フェリチの視線が痛い。
なるほど。最近、何かと商人の本を欲しがっていたと思ったらこういうわけか。俺の子ながらにしっかりした子だと感心していたがこのような弊害があるとは想像もしていなかった。
「ふーん、そう」
フェリチはあくびして適当に返事をする。どうやら、詮索したい気持ちはあれど眠いらしい。
当然だろう。エドワードが来なければフェリチは今も夢の中だったのだ。安眠妨害もいいところだ。少しエドワードを説教すべきだったか。
「フェリチ、もう遅い。早く寝た方が良い。身長が伸びないぞ」
「分かってるよ。でも……」
「でも、どうした?」
「パパ、またしばらく帰ってこないんでしょ」
依頼内容について聞かれてしまったか。いや、大丈夫だ。確信に触れる部分は言葉にしていない。フェリチは勘が鋭いのだ。何となく長期の仕事の依頼だと察したのだろう。
「……ああ、そうだな。パパ、明日からお仕事でしばらく帰れそうにないんだ」
「本当? 前みたいに帰ってくるの遅かったら怒るからね」
「怒られたら困っちゃうんだけどな……この前はごめんな。今度こそすぐに帰ってくるから。チビたちの面倒を頼むぞ、お姉ちゃん。また、お手伝いのマーサも来るから」
オズワルドが言うと後ろから溜息が聞こえてくる。ビールジョッキを置き、金髪の男は小声でまた女装させられるのか、とぼやいた。
「うん、分かった」
そういうとフェリチは重たい瞼を擦って必死に眠気に耐える。背を向けて寝室へと歩いていった。
「よし、いい子だ」
俺はその背を押して足元のおぼつかないフェリチを補助する。
寝室に入る時、フェリチはこちらを見る。
「パパ、気を付けてね」
その言葉に俺はドキッとなる。
泥棒稼業だ。何があってもおかしくない。最悪命を落としても。もしかしたらこれが最後の別れになるかもしれない。それほどに今回の任務は難しい。涙腺が一瞬緩んだ。
そしたら子供たちは路頭に迷う。そんな苦労絶対に。絶対に味あわせない。あの日の俺のような思いをさせるのは……ごめんだ。
「ああ、気を付ける。フェリチ……」
俺は無意識にフェリチを抱きしめていた。フェリチは急に触れられて驚いたようだ。どうしたの、と俺の心配をする。
「何でもない。何でもないよ。すぐ帰る。体を温めてお休み。フェリチ」
俺は作り笑いを浮かべてフェリチを解放する。少し涙が目に溜まった。フェリチはキョトンとする。
「パパ、何かあったの?」
「いや、何でもない。パパも眠くてあくびが出ちゃったよ。大丈夫。さあさあ、お休みの時間だ、お姫様。どうぞ、ベッドの方へ」
俺はフェリチの好きな絵本の執事をまねて大仰な会釈をする。それにフェリチは笑った。
「うん、お休み」
フェリチはそう言うと寝室に入っていく。俺はそれを見送り、扉を閉めた。
「絶対に帰るよ、フェリチ」
視線を落とし言い聞かせるように呟く。
「オズワルド、大丈夫だ。きっと今回も何とかなる」
「ああ、そうだな」
「そうさ。これが最後だろ。一億だぞ。この仕事から足を洗うのは簡単だろうよ」
「ただそこがきな臭いんだけどな」
「そうだな。一億なんて。普通の人間が払えるもんじゃない。それに」
エドワードをそこまでの大金を出す理由が分からない。
トリグラフの楔。
話には聞く。相当にヤバい代物だということは周知の事実だ。
この国、いや周辺を取り巻く全ての国の全ての国民が入信する宗教の聖遺物。それはトリグラフ教総本山に居を構える教皇の右腕に刻まれた楔形の紋章だ。教皇はこの世界における絶対の支配者であり、人々の価値観の大部分を占める宗教の親玉だ。それを盗むことがどれほどに危険な任務か、想像しなくても十分に分かる。それでも。もう止まれない。
「何でそんなもん欲しがるのか。金を払うのか分からない」
男が俺の気持ちを端的に代弁する。
「そうだよな。今回の仕事、出来れば断りたかったが……早くしないと」
「どうやら、嬢ちゃんも薄々気づいてきてるみたいだしな。お前が商人じゃないことに」
「それなんだよな」
フェリチはオズワルドが商人じゃないと気付いている節がある。
もう騙しきれない。子どもたちにやってはいけないことを教えている。その中で勿論、犯罪はいけないことだと言ってきている。嘘は泥棒の始まりだと、有名な言葉も使って。
道徳的に許されない行為だというだけではない。トリグラフ教において、窃盗や虚偽は地獄への片道切符だ。どんな事情があれど許されない。
今生を生きるより、天国に行くことに必死になるこの世界ではトリグラフの教えに背を向けるものは等しく地獄に落ちる。もちろん、オズワルドに救いはないだろう。
「俺が盗賊なんてゴミみたいな生き方してるって知ったら、フェリチは……子どもたちはどう思うんだろうな」
自虐が苦笑を誘う。
「オズワルド。これが最後の仕事だろう。一億が手に入ったらお前は本物の商人になれ。それも行商人じゃない。自分の店を持つ商人に。実績がないのは痛いが世の中は金だ。どうにでもなる。沈んでないで前を向こうぜ」
「そうだぜ、オズワルド。せっかくの前夜だ。盛大に送り出してやるから。心配しないで務めを果たしてこい。心配はいらねえ。マーサがついてるぞ」
男二人に励まされ、俺は頷く。
「ああ、そうだな。もうこれで盗賊稼業も最後だ。今までありがとう。じゃ、飲みますか」
ニカッと笑うと、二人も笑い返す。男は俺にガラスでできた底の深いカップを手渡し、乾杯と呟く。しかし、未成年の俺に手渡されたそれは炭酸のよく効いたジュースだった。
「乾杯」
三人は手にしたガラス製のカップを打ち付けあい一気に飲み干した。そして、フェリチに怒られない程度に粛々と飲み、語り合い、朝を迎えた。
日の出から数分、オズワルドは家に背を向けていた。ゆっくりと歩き、時々家の方へ振り返った。
家の前には手を振る男たちの姿が。
自然と笑みが溢れる。仕事用の革製のカバンを片手に手を振り返し、前を向く。ローブをまき直すためにカバンをその場に置いた後、両の手に息を吐きかけ、軽く擦り合わせた。白い息は空気にとけていく。
「おお、寒い。本格的に冬が来る前に終わればいいけどな」
冬は始まったばかりだ。この地に雪が積もる前に帰りたい。そう思った。
いよいよ、次から本編スタートです。