第六話 押し殺し歪んだもの
ミランダは膝の上でダニエルに握られた手を見つめながら、ポツポツと昨夜のことを話し出した。
途中言いづらくなって言い淀んでしまうミランダを急かすことなく、ダニエルは静かに最後まで話を聞いてくれた。
ー呆れられるかしら…失望したわよね。
昨夜は、社交の場では理知的な態度を崩さないことで有名なミランダにしては、あまりにも挙動不審で、感情も態度も乱されていた。
相手がこの国の王族、王太子だったからと言い訳するには、余りにも失態が多すぎるとミランダは酷く恥じ入った。
ーお兄様はきっと、私が誰かに傷つけられて帰ってきたのを予想していたようだけど…こんな自らの失敗と感情の暴走から逃げ出してきたと知った今、怒られるでしょうね。
昨夜のことを改めてひとつひとつ思い返し、なぜあのようなことになったのかと自問しながら、ミランダは無意識に自らの手を固く握り込む。
ーどんなことを言われようと、どんなことがあろうと、感情に振り回されてそれを態度に出すことなど今までなかったはずなのに…
「…なるほどねぇ〜」
はぁーと長くため息を吐き出したダニエル。
そんな彼の仕草にミランダは、次に飛んでくるであろう小言に備えるようと、その俯かせた体を硬らせた。
しかし、次にやってきたのは言葉ではなく、ポンと軽く頭を何かで押さえられたような、そんな小さな衝撃。
「お馬鹿さんだね、ミラ。お前は追い詰められるととことんマイナス思考に沈んでいくみたいだ」
ダニエルの穏やかさを残しつつも、いつものようなふざけても聞こえるその声音に、ミランダはキュッと眉を寄せ、おずおずとその視線を上げる。
そこにあるのは、部屋に入ってきた時と変わらない、心配そうな、困ったような、そんな兄の柔らかな顔。
「王太子殿下を突き飛ばして逃げたのは問題だけど、その他はたぶん、ミラが思うような"失態"にはなってないと思うよ。むしろ、気遣いの足りない殿下の方にも非はあるんじゃないかな?」
そう言ってミランダを慰めながらも、ダニエルはその笑顔にさらに苦い感情を含ませた。
「…殿下に不敬よ、お兄様」
「それを言ったら、初心なご令嬢を外に連れ出したどころか、強引に求婚する男は紳士ではないよ」
自分で思っていることを口に出しながら、あからさまに不機嫌になる兄の姿に、何故か父の姿を重ねてしまったミランダは小さく笑みを溢す。
「でも、予想したより事態は深刻でなくてよかったよ。てっきり不埒な輩に乱暴されたのかと冷や冷やしたからさ」
「…ごめんなさい」
まだ落ち込んだ状態から立ち直れていないミランダの頭を、ダニエルは目を細めて、そっとひと撫でする。
「でも、お兄ちゃん的には、ミラに甘えて貰えて嬉しかったけどね」
「…………………」
ミランダはアメリアのことがあってから、泣かなくなった。時折癇癪のように起こす末っ子らしい我儘も、弾けるような笑顔も見せなくなった。自らを何かの型に必死に押し込めるように自分を律し、感情を押し留めていた。
そんな妹の様子に気がつきながら、何も出来ずにいたダニエル。優しい彼がそのことで気に病んでいないわけらなかった。
「さて、ミランダ。落ち込んでるお前に本当はこんなこと言いたくないんだが、それでも今は色々解決しないことがお前に降りかかっていることはわかっているね?」
「…殿下のことね?」
「ミランダが王太子に失礼なことをしたのは事実だ。そしてもうひとつ、お前は帰ってくるときにとんでもないお土産を持ってきている」
そう言って立ち上がったダニエルが、ミランダの文机上にあった"それ"を手に取り、再び戻ってきてミランダに手渡した。
間違いなく見覚えがある、男性物の黒い上着。あの夜会で庭園に出たときに、ブライアンがミランダに掛けてくれたものである。
ミランダの眉がギュッと寄り、またみるみると落ち込んで俯いていく。
「どっちみち謝罪しなければいけないのだけれど…これがある以上、どうやっても殿下に直接会わないといけない」
謝罪は最悪、不躾、礼儀がなってないと思われても手紙でできないことではない。
ただ、"衣類"となると、別の者伝いで渡すのは"要らぬ誤解"を招くこととなる。
「そこら辺もふまえて父さんと話す必要があるだろう。支度ができたら話したいと言っていた、もう少し落ち着いたらでいいから身支度をしたら書斎に行きなさい」
ダニエルの諭すよう言葉に、ミランダは不安そうな顔で小さく頷いた。
現メルロー子爵、アルフレッドの書斎は書斎というより、父の部屋兼、図書室兼書斎というのが正しいと言える、生活感溢れる部屋だ。
部屋に入って左側、そして奥の壁は全て本棚となっており、残りの右側の壁際にはアルフレッドの趣味の画材道具が置いてある棚、そして何故かその手前にクローゼットが設置されている。主にそのクローゼットの中身は、外灯や帽子などの外出の際に着る物だ。メルロー子爵家には常駐の侍女や従者はいないので、外出の際いちいち寝室に取りにいくのが面倒だとアルフレッドが言うので、この一角にクローゼットを置いている。
ちなみに、このクローゼットにはアルフレッドの物だけではなく、ダニエルが便乗して置いている物もある。
その部屋の中央にはヒツギを加工して作られた飴色の執務机が2つ。横並びに置かれているそれらの上には、メルロー領関連の書類、手紙、その他よくわからない紙類がざっくりと分けられ、山を作っていた。
入り口から見て左側のアルフレッドが座っている机がアルフレッド専用の机であり、もう一方はミランダやダニエルが必要に応じて利用している。かつて、ヴァレンティナが健在だったころには、母がそこに座り、父と2人で仕事をこなしていたそうだ。
「ミラっ、寝てなくて大丈夫かい?具合は?もういいの?」
書斎の扉を潜ったミランダの姿を見つけると、アルフレッドは勢いよく椅子から立ち上がり、すぐさまミランダの元へと駆け寄ってきた。
その表情は今にも泣き出しそうな一歩手前というところで、眉を下げ、貴族の当主様とは思えない頼りない顔をしている。
「ご心配おかけしました、お父様。体調は問題ありません」
「それは良かったよ〜。ミラが具合悪くなって帰ったって聞いて、僕は心配で、心配で〜っ」
申し訳なさそうに釣られるように眉を下げたミランダを見ながら、父、アルフレッドはとうとう軽く涙を流し始めた。
母ヴァレンティナや姉アメリアのことがあったからか、家族の体調が崩れるたび、アルフレッドは明らかに不安定になり、度を越した心配をするようになった。
「お父様、泣かないでください。お話があるのでしょう?」
「うぅ…ミラが、いつもより優しいけど、やっぱりドライ〜」
表情だけじゃなく、言葉までも情けないものになりながら、アルフレッドは乱暴に自身の涙を拭うと、頑張って切り替えるようにキリッとしてるつもりならしい、ちょっと強張った顔を作る。
そんな父の態度にミランダは苦笑しながら、父に手を引かれるまま、普段座っている方の執務椅子へと腰掛けた。
アルフレッドももうひとつの椅子の向きを変え、ミランダの方へ体を向けた状態でそこに座る。
「なんとなくは王太子殿下、ブライアン様から話は聞いてる。ミラをダンスで疲れさせちゃったから火照りを覚まそうと外に出たら、思ったより夜風が冷たくてミラの気分が悪くなったって、」
ーそういうことになっているのね…
事実に嘘が混在しているが、とりあえず大事にならないように取り計らってくれたらしいブライアンに、ミランダは心の内で感謝した。
「でも、それは表向きの理由で、実際は自分が好意を告げて迫ったから、ミランダが動揺して怯えてしまったとブライアン様は言っていた」
そう続いたアルフレッドの言葉に、ミランダは大きく目を見開き、固まった。
驚きすぎてうまく吸い込めなかった空気が、ヒュッと音を立て、喉が張り付くような、そんな感覚が身の内でする。
そんなミランダの反応に、アルフレッドは「やっぱりそうなのか…」と小さく呟いた。
ー何故、そんなことを話したの?それじゃまるで…
「ブライアン様はお前とのことを真剣に考えているとおっしゃった。本気で妃として迎えたいと望んでいると…」
「王命ですか?」
ミランダにはそこが1番に気になった。
親であり、メルロー子爵家当主にわざわざ話を通すということは正式な婚約の申し込みとほぼ等しい。王族からの申し入れであれば、それは王命と同じ効力を持つ。
「いや、王命ではないそうだ。あくまで考えていると。そしてミラが嫌がっているなら無理強いはしたくないと」
「…しかし、」
「あぁ、わかっているよ。厳しいだろうね。どんなに子爵家だと身分が釣り合わないと辞退しても、ミラはヴァレンティナのことがあるからその"血筋"さえ認められるなら嫁げると判断されるかもしれない」
なにより、身分の上の者からの申し入れを断るとどうなるか、ミランダもメルロー家も、嫌と言うほど理解している。
ー逃げられない、の?
今朝方見た夢のせいか、ミランダの中で恐怖、不安が膨れ上がり、うまく空気を取り込めない肺が息苦しさを訴え始める。
そんなどんどん顔色を悪くする娘を見つめながら、アルフレッドは複雑そうな顔をして声をかけた。
「…ミラは、どうしたいの?」
「………………お断りできるなら、是非にでも」
「でも、………じゃあ、ブライアン様はどう思うの?」
その言葉に答えることはなく、ミランダは今にも泣きそうな、苦しそうな表情で唇をキュッと噛み締めた。
「……ミランダ。僕はお前に、好きな人と幸せになって欲しいんだ。それが幸せなことだと僕は信じて「私を、姉様のようにするおつもりですか…」
父の言葉を遮った娘の声は、掠れて、弱々しい音量だったはずなのに、まるで鋭い槍先のように2人の傷を明確に抉った。あまりにも痛々しい音の響きに、アルフレッドは言葉を詰まらせ、その表情を凍らせる。
「…言ってるでしょう。私は、身の丈に合ったものしか望んではいないと、」
ミランダの言葉に、アルフレッドは必死に何かを探すように視線を揺らし、しかしそれらが言葉としてなり得なかったのか、何も言えずにキュッと泣きそうな顔をした。
「…とりあえず、殿下には借りた上着を返すのと、謝罪をしなければなりません」
「…そう、だね。殿下も、明日こちらを訪れたいとおっしゃっていた」
なんとも気まずく、重苦しい空気を感じながらも、ミランダもアルフレッドもそれに敢えて触れないように、淡々と言葉を紡ぐ。しかし、そこには感情をひたすらに押し殺した、そんな張り詰めた様子があるのは、避けようもない事実であった。
「…この話は、ミランダに任せるよ。思うようにしなさい」
ミランダが執務室を出て行く去り際、そう言ったアルフレッドは痛みに耐えるような顔をしながらも精一杯笑顔で、彼女に向かってそう言った。
ミランダは執務室のドアノブにかけて手を一瞬強く握り込んだ後、弱々しい笑顔で「ありがとう、父様」とだけ返し、扉の外に出た。
閉じかける扉の隙間から、執務椅子の上で項垂れて顔を覆うアルフレッドの姿が見えた気がしたが、ミランダはそれを見なかったことにして扉を閉めた。しかし、耐えきれなかったように俯き、ミランダはそのまま扉に頭を押しつけ、それに縋った。
「なんであんなことを…」
夜になり、体調を崩したミランダは、それから4日ほどベッドで寝込んでしまった。