第二話 その出会いは突然に
必要最低限の社交しかしない、社交嫌いとも取れるミランダ。彼女が参加するのは王宮主催の夜会や、侯爵家以上の決して招待の断れないもの、そして個人的に付き合いのある貴族のものに限られる。
その日訪れたマキューリオ伯爵の夜会は、父の付き合いで出席したものだった。
ミランダは瞳と合わせた、ダークグリーンのベルベット地で作られたボディに、ふわりと広がったモスグリーンのスカートのAラインドレス。真珠が品良く散りばめられたこのドレスは、ミランダが持ってる中で最も良いドレスで、唯一ミランダがアレンジを加えることができないドレスでもあった。
重たい布地を使ってる為一層動きづらく、あまり夜会、特に踊らなくてはならない舞踏会に、ミランダはこのドレスを着ていかないようにしていたのだが、今日のミランダは父の隣に控え、彼のフォローとして張り付いている気満々だったため、このドレスを選んでいた。
髪もアップスタイルに結い上げてはいるが、自分でシンプルに纏めただけの夜会巻きだ。
きちんと正装した父、アルフレッドにエスコートされながら会場に入ってきたミランダを、父親の旧友、マキューリオ伯爵は何か懐かしいものを見るような表情で、目を細めて見ていた。
「そうやって見ると、昔のお前とヴァレンティナ嬢を思い出すなぁ…」
「ちょっと、一言目くらいちゃんと挨拶してよ。僕だって、今回は娘の前で最初だけでもカッコつけたかったのに…あとヴァレンティナはとっくの昔に僕と結婚して、未婚の女性じゃないから」
しみじみとした声でそう声をかけてきたマキューリオ伯爵に、アルフレッドは不貞腐れた顔でそんな言葉を返す。
「アルフレッド。いい大人がそんなあからさまに表情を出すな。…全く、"ベルナ海の至宝"は何故こんなのを夫に選んだのか…」
「そこについては僕も全くの同意だよ。本当に…ヴァレンティナは今でも、私には勿体ない素晴らしい女性だよ。」
話題のせいか、センチメンタルになりかけているアルフレッドに、ミランダは組んでいた腕を軽く叩き、まだ形式だけでも挨拶をちゃんとしろと視線で促す。
そんなミランダの様子すらマキューリオ伯爵は一瞬嬉しそうに眺めていたことを、アルフレッドの方を見ていたミランダは気がつかなかった。
「あー、ゴホンッ。マキューリオ伯爵。本日はお招き頂き、ありがとうございます」
「これはご丁寧に。メルロー子爵、ミランダ嬢、お越し頂きありがとうございます。本日は"珍しいお客様"もいらっしゃるので、ぜひ楽しんでいってください」
「ありがとうございます、マキューリオ伯爵」
そんな少々今さら感のある真面目なやり取りを終えながら、マキューリオ伯爵が楽しそうな笑みを浮かべた。
「アルフレッド、目付役の方がいらっしゃるうちに、重要どころに挨拶しにいったらどうだ?」
「なっ…、ぼ、私は、そんな子供じゃ……いや、でも目付役で正しいかな?じゃあ、ジェームズ。お互い落ち着いて話せるようだったらまた」
そんな情けなくも感じるアルフレッドの素直な発言にミランダは苦笑しながら、アルフレッドと共に会釈をし、エスコートされるがままにその場を離れた。
「…お父様、先程マキューリオ伯爵が仰っていた"珍しい方"とは」
「ん〜、誰だろう?ジェームズが王宮勤めもしてるから、もしかしたらそっち関連のお客さんかもね」
その時のミランダはそんなものかと、自分の中で引っかかりを覚えつつも、父の言葉であっさりと流してしまった。
だから、その人物が目の前に現れた時、心の準備をする間もなく、激しく動揺してしまった。
「アルフレッド、ミランダ嬢。紹介した方がいるんだが…」
夜会が始まってしばらく経った頃に、マキューリオ伯爵がそう言って連れてきた人。
他の男性達から頭ひとつ分悠々と飛び出すような高身長、金と銀の刺繍が施された黒のテールコートがよく似合う、鍛えられた威厳ある体格。
何よりこの国唯一の、英雄王と呼ばれた初代国王を彷彿とさせる、燃えるような鮮やかな赤髪と、その下に見える鋭い光を宿らせるブルーグレーの瞳。
遠目に見かけたことは何度でもある。そして、この国の貴族であれば知らない人はいない。
ブライアン ミカエリス ブルフェン。
現ブルフェン国王、ルドガー フィニアス ブルフェンの4人の子供のうちの第2王子であり、"炎の獅子"の異名を持つ、幾多の戦場で輝かしい功績を残した、武に明るい王太子である。
その性格も公明正大。皆に公平であり、己に厳しくも弱き者には優しい寛大さを持ち合わせている。
公務や14の時から入隊している軍での仕事も優秀であり、まさしく容姿共に初代国王、レオナルドの再来として王座に君臨することになるだろうと専らの評判だ。
ーなんで気がつかなかったのかしら。伯爵はちゃんと前置きを下さっていたのに。
己の考えの至らなさを恨み、内心ではパニックを引き起こしながらも、ミランダは必死によそ行きの微笑みを作り直す。
「ブライアン殿下、こちらはメルロー子爵とそのご令嬢のミランダ様。アルフレッド、ミランダ嬢、こちらはご存知だとは思うが…」
「ブライアン殿下、お初にお目にかかります。ご紹介に与りました、アルフレッド メルローと申します。娘のミランダ共々、殿下にご挨拶出来たこと、大変光栄に思います」
「ミランダと申します」
全く緊張した様子のない、堂々とした挨拶をするアルフレッドと反対に、ミランダは激しい心臓の音を押さえ込むのに必死で、涼しい顔で淑女の礼をして名乗るだけで精一杯の状態であった。
「…ブライアン ミカエリス ブルフェン。気楽に接してくれると有り難い」
「畏まりました。では、そのように」
そんな珍しくカチコチなミランダを置いて、ブライアンとアルフレッドはにこやかに会話を続けている。
ーなぜこんなにも緊張してるのかしら?
自身を襲う尋常ならざる緊迫感にミランダは恐れ慄きながら、そっとその伏せていた深緑の瞳をブライアンの方へと合わせた。
瞬間、偶然かはたまた必然か。ミランダの視線がブライアンの胸の内まで見透かされそうな鋭い視線と交わる。
ドクンッとなる身の内の音とともに訪れるのは、抗い難い痛烈な感覚。
考える間もなく、ミランダは咄嗟の判断で視線を再び伏せた。
理解できない背筋をゾワっと駆け巡るような感覚に、混乱し、恐怖する。
何故かは自分でもわからなかったが、本能的に見るべきじゃないと、自身の心が警鐘を鳴らした。そんな気がしたのだ。
ーこの緊張はきっと、あの瞳のせいだわ。
ミランダはバクバクと、より一層早鐘を打ち始める心臓の上へと手をやりながら、一瞬目にしたブライアンの、ブルーグレーの瞳を思い出す。
獲物をその目に捉えた、獰猛で美しい獅子を思わせる強者の光。
思い起こすだけで肌が際立つのを感じながら、ミランダは身体が震えそうになるのをなんとか必死で抑え込む。
そんな畏怖にも近い感情に揺らいでいたからだろうか。
だからミランダは、ブライアンが自分に向けて発した次の言葉に、すぐに反応することができなかった。
「…今宵は踊らないのか?」
ブライアンの硬質なバリトンが耳に届き、数秒の時間を有して、それが自分に向けられたものだとミランダは気がついた。
急いであげた視線に映る、男らしく精悍な顔つきをしたブライアンは、ただただ真摯な眼差しでミランダを見ていた。
「えっ………あっ、その……皆様のお話が大変興味深く、踊ることも忘れるくらい聞き入っておりました。まだまだ私も若輩ですし、とても勉強になる貴重なお話ばかりでしたので…」
この夜会で、何度もされたはずの質問。
中にはあからさまに『女が男の立ち話に付き合うのか?』と侮蔑を込めた嫌味な言い回しをしてくる者もいたが、それにミランダは毎回薄く微笑み、"女の社交も踊るだけではない"と上手に言葉を返していた。
それなのに、乱された思考の末になんとかミランダが絞り出せた返事は、なんとも次第点ギリギリなお粗末なもの。優雅に微笑むどころか、声に抑揚すら乗せられていないことを考えると、むしろ少しマイナスであった。
ーらしくないわね。
ミランダは淑女らしい華麗な返しが出来なかった己の失態に、ギュッと身を縮こまらせながら、相手の反応を窺った。
歴史や格式を重んじるブルフェンにおいて、女が、特に若い女性が男性に混じり、政治や領地の経営の関わる話をするのはあまり良く思われない。
だからこそ、そこに混じるならそれなりの体裁を彩る、耳に"美しい言い訳"を口にしなければならない。
厳しい言葉が飛んで来るかと身構えたミランダの予想とは違い、ブライアンは「そうか…」と呟いただけだった。
気にした風でもないそんな反応に、ただ社交辞令程度に話を振っただけなのだろうかと、一先ず、ミランダも安堵の息を漏らす。
しかし、それを一瞬でぶち壊したのはこの夜会の主催者、マキューリオ伯爵の次の言葉だった。
「しかし、ミランダ嬢も紳士に付き合って堅苦しい話ばかりでは息がつまるだろう。…殿下、よろしければミランダ嬢と踊ってらしてはいかがですか?」
ミランダがここで父、アルフレッドに張り付いている理由も、自らそう望んでいることもわかっている癖に、平然ととんでもない提案をブライアンにしたマキューリオ伯爵に、ミランダはもはや悲鳴をあげる寸前であった。
ー殿下にそんな押し付けがましいとも思われかねない提案をするなんて、マキューリオ伯爵は何を考えてるの!?
普段のマキューリオ伯爵ではあり得ない、少し強引なとも取れる言動を疑う余裕もなく、ミランダは縋るように引きつった笑顔を父、アルフレッドへと向けた。
ーお父様っ!お願いだから普段の空気読まない発言で笑い事のようにあしらって下さい。
「確かに夜会に来て一曲も踊らないのはミランダが可哀想かな?ミラ、踊りに行ってきてもいいよ?」
しかしミランダの期待も虚しく、あっさりと裏切られたアルフレッドの言葉。
一縷の望みと、祈るような気持ちでまだ一言も発しないブライアンをミランダが見上げれば、感情の読み取れない無表情でミランダをジッと見つめていた。
強すぎて、威圧感さえも感じる眼力にたじろぎながら、最後の砦となるブライアンの返事を、処刑台へと連れていかれる囚人のような気持ちで待ちわびる。
ー断って下さらないかしら。でも…寛大なことで知られる殿下は…
"これだけお膳立てされ、王太子にダンスを断られた令嬢"などと、ミランダに悪評がつくことを懸念してしまうだろう。
「…よろしければ」
そう言って差し出された自分よりも圧倒的に大きい掌を目に止め、ミランダはやはりと心の内で嘆息する。
しかし、それはほんの束の間で、次の瞬間には腹を括り、小刻みに震える手をなるべく自然に、美しく見えるようにブライアンの手に重ねた。