1 プロローグ(★)
(エターナルニートファンタジア イメージイラスト 作画:イトザキイト先生)
「おにーちゃん!!」
そう叫びながら勢いよく駆け上る足音で、シンジの目は大きく見開く。
あと3秒で、この部屋に招かざる侵入者がやってくるのだ。
0.1秒で布団から脱出し、続いて0.2秒で押し入れの戸を開き、0.3秒で全身を押し込み、そのままゆっくりと戸を閉めて、じっと息を潜める。
「おにーちゃん! どこよ!? いるんでしょ!?」
この日もシンジは、物音ひとつ立てずやり過ごすつもりだ。
今は正午前。
耳を澄ますと、外の公園では小さな子どもたちが元気よく遊ぶ声が飛び交い、向かいの中学校のグランドからは金属バットのノック音が心地良いタイミングで刻まれていく。
――時が動いている奴はいいよな。
だけどシンジは、すべての外部環境と断絶を決めている。
――俺なんて、ほっといてくれよ。
毎度のことながら、そのような言葉が脳裏を過る。
妹のしずくは、いつにもまして熱心に兄を探しているようだ。
力いっぱい掛け布団を跳ねのけると、シーツに手を添えて、「まだ温かいぞ、絶対にこの部屋にいるはずだ」とあきらめる様子はない。
「ここかっ!」
すぐさま振り返ると、勢いよく押し入れの戸を開く。
シンジは逆方向に身を隠す。
「あれ、いないなぁ……。ここじゃないのか……」
それはしずくの巧妙なフェイクだった。
声と同時に反対方向の戸を、左手で力任せに開く。
だが、シンジはそれと呼応するようにしずくの死角へと移動する。しずくが押し入れを覗き込んだと同時に、シンジは押し入れから抜け出し、間髪入れずクローゼットへと潜り込む。
「はぁ、はぁ、はぁ……、もう、おにいちゃん! 一体どこにいるのよぉ!」
シンジは小さく溜息を吐いた。
――どうせしずくのやつ、またネチネチと説教するに違いない。俺はもう誰とも関わらないと決めているんだ! ほっといてくれよ。
「……あのね、お兄ちゃん」
突然、しずくの声のトーンが変わった。
「……あたし、結婚するの……」
シンジは驚きを隠せなかった。
――は? しずくは何を言っているんだ? 駄目だろうが! お前はまだ9歳だろ? いや、あれから何か月か経ったような気もするが、だけどその年じゃまだ結婚できねぇよ!
「お兄ちゃんの顔、最後に見たのは16年前だったよね。誕生日のお祝い、嬉しかったよ……。でも、あの日からお兄ちゃんの時は止まっちゃったね……」
――まさかあれから16年も経っているなんて……
「……もう、お兄ちゃんのとこ、来てあげられないけど……元気でね……」
妹が去った自室。
シンジはクローゼットの戸をゆっくり開けると、2、3歩歩いた。
その足取りは重たかった。
親が怖かった。
学校が嫌いだった。
先生が面倒だった。
クラスメートがちょっぴりうざかった。
だから、一人になりたかった。
それはシンジにとって、ほんのちょっとだけの休憩のつもりだった。
1日が2日になり3日になり、そのままずるずると。
シンジはぽつり呟く。
「……それにしても、しずくのやつ……立派な大人へと成長していたんだな……」
ほんのちょっぴり頬を崩したシンジだったが、また暗い表情へと戻る。
「それに引き換え俺は……。
このまま俺はどうなっちまうんだ? しずくが25歳ってことは……俺はそれよりも上ってことだろ?? つまり仕事しないとダメな年齢じゃん?? 大丈夫なのか、俺?? それよか、俺、今年、何歳になるんだ? しずくと何歳離れていたっけ? うう、マジで分からん」
完全に社会から孤立して16年もの時が経過したのだけは理解できたようだ。
そういえば、いつも冷蔵庫にラッピングされたご飯がセッティングされてあった。深夜、誰にも見つからないようにそいつを入手して、音で誰かに気付かれることが怖いのでレンジでチンすらせず、貪るように食べていた。あれは一体、誰が、どんな気持ちで用意してくれたのだろうか。両親が自分のことをどう思っているかなんて、恐ろしすぎて考える事すらできなかった。
シンジは天井を仰ぎ、大声を上げた。
「本当は俺、頑張りたかったんだよ! 何かをやり遂げたかったんだよ! ちょっとだけ休むつもりだったんだよ! どうしてこうなったんだぁぁぁ! くそったれ!!」
目から次々と大粒の涙がこぼれ落ちた。
「……もう一回、ちゃんと頑張りたい……」
その時だった。
天井いっぱいに不思議な文様が浮かび上がったのだ。
それは六芒星のように見える。
文様はいっそう強く輝く。
シンジはその光に包み込まれた。
*
ここは一体どこなのだろうか。
目の前には太く白い柱が、幾本も立っている。
まるで西洋の神殿のようだ。
すぐさまシンジの顔が青くなる。
たくさんの人がシンジを取り囲んでいるからだ。そして熱心に話しかけてくる。
「〇×▽§gaΓ×▽……」
「〇×▽§gaΓ×▽……」
「g×▽Γ×▽……」
「×▽Γg×▽……」
何を言っているのか理解不能。
髪の色は青や紫や黄色。服装も現代の日本とはとても思えない。まるで中世ヨーロッパの一角に瞬間移動してしまったかのようである。
16年間、社会を拒絶していた間に、大きく文明が変化したのだろうか。
あまりの驚きと恐怖で、シンジはおおきく尻もちをついてしまった。
そんなシンジの目に一人の男性が映りこんだ。
鼻筋の整った精悍な顔つきで金髪を後ろで束ねている。そして重量のありそうなフルメイルタイプの鎧を身に付けた見事な体躯の男だった。
シンジの前で片膝をつき、丁寧に頭を下げる。
「あなたは日本人ですね?」
その独特のイントネーションで、この男の母国は日本ではないことが分かった。
シンジは首をコクコクと縦に振る。
「ようこそ、異なる大地エルファラースへ。この地では、地球からの転生者は大いに歓迎されます。素晴らしい文化と偉大なるスキル、そして紳士な心を身に付けている日本人は特に」
男は振り返ると、周りの者達に何やら話し出した。
皆の視線はシンジに釘付け。
男は胸に手を添え一礼すると、再びシンジに問いかける。
「私はロイ。この世界ではレイズと名乗っております。生まれはアメリカ。日本が好きで、何年間か日本に滞在していましたので少しばかりの日本語は分かります。失礼ですが、お名前を教えてもらってもよろしいでしょうか?」
「……、え……と……、し、シン……ィ……」
レイズと名乗った男は再び振り返ると、大衆に向かって何やら大声で話し出した。
途端、歓声が巻き起こる。
「シンッ! シンッ! シンッ! シンッ! シンッ! シンッ!」
それはシンジへ向けられた歓迎の声のようであった。
レイズはシンジへ向き直ると、
「シン殿。人差し指と中指で二回宙を叩き、横にスクロールさせてください」
言われるがまま、シンジは指を動かす。
すると目の前に半透明の板が現れたのだ。
「これはステータスウィンドというものです。自身の情報を閲覧することができます。この世界の住人なら誰でも所有している能力です」
ようやくシンジは状況が飲み込めてきた。
「つまりこれ、異世界転生ってやつですか?」
レイズは目を細め、ひとつ頷く。
「その単語が、この状況を理解するもっともベストなワードかもしれませんね」
シンジは頬をつねってみた。
ちゃんと痛みを感じる。
――マジかよ。もう一回、やり直させてくれるのか!
レイズは話を続ける。
「ステータスウィンドの最下層に文字コードの調整欄があります。コード番号を321199に変更してみてください」
シンジは指でコードを変更した。
するとどうだろう。今までさっぱり分からなかった周りの言葉が理解できるようになったのだ。
王冠をかぶったふくよかな男性は、シンジの手を取ると、
「シン様。どうか我が国に、要人としてお越しください! 前金で5千万ラルンをお支払いいたしますぞ」
その手を跳ねのけて、毛皮のコートを着込んだ貴婦人が、
「いいえ、シン様。私の国にぜひいらしてください。私どもはあなた様を最高の礼を尽くしおもてなしします」
その貴婦人の前に割り込んだターバンをかぶった男性が、
「いえいえ、我々の国家へぜひ。我々はあなた様が望むままの椅子をご用意します」
更には、「シン様! 我が祖国の英雄騎士団へ!」「我が隊は、シン様に忠誠を誓うぞ!」なんて叫ぶ者まで出て来た。
シンジの目はきょとん。
何が起こっているのか、さっぱり分からない――そのような表情で皆の顔を順々に見渡す。互いを罵りながら自分を奪い合っている。なんてことだ。
シンジは気弱な目でレイズに目配せする。
まるで助けを求めている子犬のような目で。
「彼らは、あなたに力を貸してくださいと言っているのですよ」
――俺の力?
「この世界は6つの大国からできています。ですが、どの国も魔物の恐怖に晒されております」
「魔物ですか……。で、でも、俺に戦う術など……」
レイズはニッコリ笑った。
「もちろん私も最初はどうしようかと思いましたよ。ですがどういう訳か、地球人はこちらに来ると不思議な能力に目覚めるようなのです」
「えっ?」
「おそらくあなたにも、偉大なる力が眠っていることでしょう」
シンジは勇気を奮い立ち上がった。
「俺、ここに来たばかりで、まだ何ができるか分かりません。ですが俺を必要とされるのでしたら……。あとですね、お金なんて要りませんから!」
大歓声が巻き起こる。
「出会ったばかりの我々を助けてくれるだけでなく、礼すらいらないとおっしゃるのですか……」
「真の英雄がやってきた!」
「シン様こそ、長年待ち続けた大英雄ぞ!」
「これぞまさしく、神の光臨だ!」
「キャー! シン様! こっち向いて!」
その様子を、遠巻きから興味深く眺めている者がいた。
それは強気を感じさせる切れ長の目をした、長い黒髪が良く似合う少女だった。
手には籠があり、その中にはオニオン、マッシュルーム、ポテト、と色とりどり。
さしずめ今夜の献立の材料でも調達していたのだろう。
少女は呟いた。
「すごいな、彼。私なんて初めてあの場に立ったとき、びっくりしちゃって、のんびり暮らしたいから英雄とかいいですって言っちゃった……」
どうやら少女もまた、転生者のようである。
じっとシンジを見つめていたが、思わずシンジと目が合うと肩でちょっぴり笑いその場から立ち去った。
*
シンジを招待してくれた国は全部で6つ。
悩み抜いた末、承諾したのは、レイズの所属するヴァルズという大国だった。
レイズの他にも6人の英雄がいるらしい。きっと彼らも地球人なのかもしれない。そして地球人は、この世界に来ると確変する。そうと知ると何とも言えない嬉しさがこみ上げてくる。
シンジが馬車に乗り込むと、馬は石畳の道をゆっくりと走り出していった。
隣に座るレイズが話しかけてきた。
「シン殿。ヴァルズ宮殿はここから半日はかかります。しんどい時はおっしゃってください」
「ありがとうございます。それよか、俺の事はシンでいいですよ。ここでは俺の方が後輩だし」
照れくさそうに頭をかくシンジに、レイズは柔和な笑みを浮かべた。
「ところでレイズさんは、いつ、どうやって力に目覚めたんですか? 転生直後からですか?」
「魔物と戦ってレベルが上がるたびに成長していきます」
「え、戦って成長!? 今の俺は、きっと無茶苦茶弱いですよ!」
「大丈夫ですよ。私も最初から戦闘経験などありませんでした。ですが地球で経験した職が役に立っています」
「職?」
「職で身に付けたスキルが、異世界風に発揮されると言えば良いのでしょうか……。つまり前職の能力が、この世界の空気を吸うことで飛躍的に伸びるということです。ところで前職は何をされていたのですか?」
「え?
ニ……
えーと、あのですね……」
言葉を詰まらせたシンジ。
レイズの表情は一瞬曇ったかのように思えたが、またいつもの穏やかな表情に戻った。
「そうですね。前職は内緒にしておいた方が良いでしょう。前職のスキルが強みにもなりますが、同時に弱点に転嫁する場合もございますから。そういえば私も内緒にしておりました。これは失敬。ははは。
――ということは、つまりもうステータスを確認されたのですね。
私も自身のステータスを見た時、自分の強みと弱みをすぐに理解できました。故に今はパラディンと名乗っております。シン君には、どのような能力が秘められているのでしょうね……。私があなたをここの住人達に強く推したのは、あなたが日本人だからです。日本人は皆、仕事熱心で高い技術力を持っています。だから、私はあなたの将来がとても楽しみなのです」
シンジは真っ青になり、慌ててステータスウィンドを開いた。
そのあまりの酷さに、意識を失いかけた。
名前:シンジ
クラス:ニート
レベル:1
HP:6
MP:0
【状態ステータス】
◆ 働いたら負け
仕事をするとダメージを受ける
【スキル】
◆ 床ドン
床を一定のリズムでドンドン叩くことにより、保護者を呼ぶことができる
◆ パラサイト・シングル
宿主に寄生することができる