●憎悪の生餌 1
*
せいぜい幸福な振りをしていれば?
死ぬまでそうしていれば良いのよ。
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月と太陽の花が咲くクリサスの森──その奥で佇んでいた女神像から繋がった場所は、しんと静まり返った一室だった。
女神像が繋ぐ場所は四つ。
ヘヴィックの言う通りであれば、水都カラジュム、そして先ほど森があったクリサス、雪の都リディム、そして──。
「──……コスミア、か?」
月の回廊が通る街のひとつ。
魔法使いの集会場と呼ばわれ、かつては魔法使い達によって賑わったという場所。
何も置かれていない広間はがらんとしていて、長らく人の出入りがないように見える。
女神像が立っている土台でさえ、悪意を持って傷つければすぐに役目を果たせなくなりそうなほどだ。
「……プラタナスみたいだね」
「そうだな」
静まり返ったこの場所は、大聖堂を改装して図書館にしたプラタナスにも似ている。
緻密な彫刻が施された柱頭や柱同士をアーチで繋いだ高い天井が、そう思わせるのだろう。
シェリアの言葉を肯定したテオドールは、彼女を促して周囲に気を配りながら歩き出した。
女神像に背を向けて廊下に出ると、広間が比較的無事だったのだと思えるほどひどい有様だった。
廊下に並ぶ扉はほとんどが破壊され、あるいは外されてしまっている。
近くの室内を覗き込むと、壊された棚から落ちたらしい本が散乱し、テーブルはひっくり返されていた。
別の部屋の状況も同様で、まるで略奪後のようだ。
「……」
すさまじい暴力の痕跡に、テオドールは眉を寄せた。
乱暴に引き倒された調度品や、割れた瓶の破片などがあちらこちらに見えている。
無事に残っている部屋は、あの女神像が置かれていた一室だけなのかもしれない。
しばらく探索を続けたものの、他には何も見当たらない。
次の場所に行くためには、その場所へと通じる女神像を見つける必要があるものの、その手がかりになりそうなものはなかった。
このようなところには長く留まっていられない。テオドールはそう判断した。
「シェリア、一旦クリサスに──」
戻ろうか、と。
そう告げようとしたテオドールだったが、遠くから聞こえた足音に気が付いて動きを止めた。
遅れて、シェリアも廊下から響く足音に気が付いて身を強張らせる。
廊下を駆け抜けた足音のあと、扉の開閉音が響き渡る。
顔を見合わせたテオドールとシェリアは、共に頷き合って廊下に出た。
足音からしてそれほど遠くには行っていない。
確認した限り、開閉が可能な扉は最初に入った広間のものだけだ。
広間の扉前まで辿り着いたテオドールは、シェリアを一瞥した。
「……離れるなよ」
「う、うん」
ノブに手をかけたテオドールは、室内の様子を伺いながら慎重に扉を開いた。
だが、室内からは物音ひとつしない。
扉を開け放っても、物がなくがらんとした室内に人の姿はなかった。
そして、室内には隠れられるような場所もない。
視線を巡らせていたテオドールは、女神像の後方に位置する壁際に扉があることに気が付いた。
先ほど女神像を振り返ったときにはなかったように思えるが、見落としたのだろうか。
わずかに違和感を覚えながらも、テオドールはシェリアに目配せをして広間の奥を目指した。
女神像の裏側に位置する壁には、少し小さな扉がある。
女神像の正面からは見えない位置にあるそれは、隠されているようにも思えた。
テオドールが軽く身を屈めなければ入り込めない隠し部屋もまた荒らされた形跡がある。
切り裂かれた壁の傷。
変色した絨毯、転がっている何かの破片。
踏みつけられて割れた何か。
ただ、他の部屋と違って、ここには明らかな血痕が残っていた。
背後から様子を窺っているシェリアのことを気にしたテオドールだったが、単独で待たせる方が危険だ。
室内に入ったテオドールは、床に積もった埃越しに血の痕跡をなぞった。
絨毯の状態からして複数人か、あるいは数人でも致命傷だと思えた。
略奪どころか虐殺まであったのだろうか。
かつての魔法使い達がそう易々と殺されるとは思えないが、可能性としては有り得る話だ。
そう考えて陰鬱な気持ちになっている彼に続いて、シェリアが室内に足を踏み入れた瞬間、室内の光景が一変した。
「──っ!」
目を開いていられないほどの風が足元から一気に吹き上がり、ひと瞬きのうちに古ぼけていた内装が真新しくなったのだ。
反射的にシェリアを抱き寄せたテオドールは、剣を引き抜いて前を見据えた。
「……なっ」
眼前に広がっているのは、透き通った身体を持つ人々が立っている光景だった。
その誰もが、ひどく古い服装をしている。
プラタナスの図書館で見たような、それこそ魔法がこの国を反映に導いた時代のものだ。
テオドールに抱き締められた状態のシェリアもまた、その光景を見つめて驚きに目を見開いた。
亡霊のように佇んでいた彼らは、次の瞬間には『逃げろ!』と口々に叫び始めた。
そして、テオドール達をすり抜けて、一目散に広間の方へと駆け抜けていく。
「……これは、いったい……」
足元に視線を落としたテオドールは、そこにあったはずの血の痕跡がなくなっていることに気が付いた。
絨毯はまだ新しいように見え、その上には埃も積もっていない。
まるで時間が遡ったかのようだ──そう考えていたとき、『やめてくれ!』と男の声が響き渡った。
弾かれたように顔を上げたテオドールの視線の先には、三人の人物が立っている。
床の上にうずくまっている少女。
その少女をかばうように立っている少年。
そして、彼らに剣を突き付けている剣士だ。
三人の身体もまた薄らと透けていて、そこに存在していないように見えた。
だというのに、声はひどく生々しく鼓膜を震わせてくる。
『その娘を渡せ』
重々しく暗い声を出した剣士の横顔は、テオドールとよく似ている。
そのことに気付いたテオドール自身が息を飲むほど、似通っていた。
剣士の言葉に対して、怯え切った様子の少女は何も答えない。
『この子は関係ないだろ!』
丸腰の少年が声を上げた。
だが、剣士はまるで気にした様子もなく、淡々とした態度で剣を振り上げる。
何かを叫びながら少女を抱き締めた少年の背を、鋭い切っ先が切りつけた瞬間、シェリアは耐え切れずに顔を背けた。
シェリアの頭を抱き締めたテオドールはその場から動けず、倒れ込んだ少年の姿を見つめるばかりだ。
少女の悲鳴が響き渡った。
あまりにも悲痛な声だ。
テオドールは顔を背けたくなったものの、どうしてもその光景から目が離せなくなった。
倒れ込んだ少年に縋りついた少女が泣き叫ぶ。
それでも剣士は再び剣を振り上げた。
それが当然のように、義務であるかのように。
至極淡々とした動きだ。
少年の傷を塞ごうとするように両手でその背に触れた少女が顔を上げる。
剣士を睨みつけたその顔を見た瞬間、テオドールの背筋に震えが走った。
少年の血にまみれている少女の顔は、シェリアとよく似ていた。
シェリアのあのような表情は見たことがないというのに、それでも腕の中にいる存在を確かめてしまうほどだ。
少年が逃げてくれと少女をうながした。
絞り出すようなその声は、少年の息苦しさを示している。
だが、テオドールから見ても少女が逃げることは困難だった。
出入口を塞ぐように立っている剣士を交わして逃れることなど、あまりにも現実的ではない。
この部屋に追い詰められた時点で、彼らの運命は決まっているようなものだとすら思えた。
無言のままでいる剣士の振り上げた剣が少女へと振り下ろされる。
抵抗する術のない少女に対して、剣士はまるきり無慈悲だ。
たった数秒の、一瞬の出来事だというのに、テオドールにはまるで止まっているように、ひどくゆっくりと感じられた。
少女の顔が驚きと絶望に染まる。
自らの剣を握り締めたテオドールが無意識のうちに前へと踏み出した次の瞬間、シェリアが声を上げた。
「──テオ!」
ハッとしたテオドールが動きを止める。
そんな彼の腕を抱き締めるようにして引き留めたシェリアは、ひどく不安そうな顔をしていた。
テオドールが再び前を向いても、荒れた室内には埃っぽさと荒事の痕跡が残っているだけで三人の姿はない。
先ほどの光景は何だったのか。
室内はしんと静まり返っていて、今見たばかりの光景が幻だったのだと示しているかのようだ。
激しく暴れている心臓を鎮めるために大きく息を吸ったテオドールは、再び気配を感じて扉を振り返った。
隠し部屋を覗き込んできていたのは、ひとりの青年だ。
その身体は透けていない。
再びシェリアを抱き寄せたテオドールは、剣を収めることなく向き直った。
しかし、青年は意外そうに瞬かせた目を細めて、静かに微笑んだ。
「珍しいねぇ、こんなところに人がいるだなんて」
その奇妙なまでに優しい微笑みに、テオドールはごくりと喉を鳴らした。