●月明かりの道しるべ 1
*
失いたく なかったの。
奪われたく も なかったの。
あなたには 分からないのね。
*
背後で扉が閉じた時、周囲はまるきり暗闇そのものだった。
すぐ傍にいる互いの姿さえ見えないほどの闇に包まれて、シェリアは思わず息を飲んだ。ゆっくりと、指先に何かが触れる。それがテオドールの手だということは、すぐに分かった。
「……テオ」
「ああ。ここにいる」
テオドールから返ってくる言葉は、いつだってシンプルだ。
しかし、それは確かにシェリアに安心感をくれるものでもある。
大きくて硬いテオドールの手をシェリアが握り返したとき、足元から風と共に光が舞い上がった。ふわりと足元が浮く感覚。服も髪も大きく揺らいでたなびいて、周囲一面が白に染まる。
途端にテオドールの腕に抱き締められたシェリアは銀の瞳を丸くした。だが、その落下するような、光に包まれるような感覚は一瞬のことだ。
最初に視界へと飛び込んできたのは水だった。足元を満たしている水。ハッとして顔を持ち上げると、視界が急に開けて一気に街が姿を現した。広がった景色に反して一瞬の無音。そしてワンテンポほど遅れて、街の賑わいが耳に届いた。
「──……あっ」
気が付けば、市場の傍らに立っていた。
通路を満たす水も、建物だって確かに水都カラジュムだ。慌てて背後を振り返っても、そこには扉も通路もない。
テオドールもまたシェリアと同じように、驚いた様子で背後を振り返った。
しかし、そこにあるのは市場を行き交う人の姿だけだ。突如現れた自分達を気にした様子もない。ひょっとしたら、突然現れたとすら認識されていないのかもしれない。
「……不思議なものだな」
やはり、魔法には慣れられそうにない。
テオドールが低い呟きと共に抱き締めていた腕を解くと、シェリアはこくこくと頷いた。
「……うん。魔法ってすごいね」
確かにこの力を武器として使ったのなら、大変なことになるだろう──そう思う反面、シェリアは少しわくわくしていた。どんな魔法があるのだろうかと。
怖くは感じなかった。恐ろしいとは思えなくて、好奇心が刺激されて気持ちが高揚している。
ドキドキと高鳴る胸に手を添えると、テオドールがわずかに眉を寄せた。
「シェリア、大丈夫か」
「……うん。平気だよ、大丈夫」
「それならいいが……」
そう言いながら周囲を見回したテオドールは、はーっと息を吐き出した。
魔法が引き起こした現象に、無意識のうちに緊張していたせいだ。
「……とにかく。先に食料を買い足そう」
「うん」
静かに思考を引き戻したテオドールの様子に、シェリアは小さく笑みを浮かべた。
やはり、彼はとても頼りになる。
賑わう市場に入り込むと、あちらこちらから呼びかけの声が向けられた。
やはり銀の髪はよく目立つようだ。
縁起が良いからだなんて理由で値引きされて、シェリアは少しばかり困ってしまう。
通路を流れていく水に足を取られないようにしながらもシェリアの足元を気にしていたテオドールは、ふと視線を感じて振り返った。
「──やぁ! テオドール、シェリアちゃん」
賑わう市場にはやや不似合いな聖職者──ヘヴィックが、にこにこと笑みを浮かべて立っていた。いや、不似合いというほどでもないか。
聖職者らしからぬ彼は、やはりあちらこちらの露店から「ナンパすんなよー」などと言われている。扱いは相変わらずだ。
「人聞き悪いなぁ、あいさつに来ただけだって! ──シェリアちゃん、また会えるなんて運命だね!」
そして、ヘヴィック自身の態度も相変わらずだ。
ぺこっと頭を下げるシェリアを軽く隠すようにして立ったテオドールは「ちょうどよかった」と頷いた。
この街で最も女神に詳しいであろう人物がヘヴィックだ。彼の方から来てくれたことは、確かにラッキーではあった。
ヘヴィックがやたらとシェリアに近付こうとすることを除いては、だが。
「もしかして、僕に用事? ますます運命を感じちゃうね!」
「聞きたいことがあるんだ」
シェリアを斜め後ろに隠すようにしてヘヴィックから遠ざけつつ、テオドールは言った。自分でも人に頼む態度だとは思えなかったが、万が一にもシェリアを口説かれては堪らない。今の自分はきっと我慢できなくなるだろうとすら思えたからだ。
「聞きたいこと? いいよ、僕に分かることなら何でも答えるさ」
きょとんと目を丸くしてテオドールを見上げたヘヴィックは、不思議そうに首を傾げたあとで笑った。基本的には気のいい男なのだ。
「シェリアちゃんも、僕のことを知りたかったら何でも聞いてね!」
こういうところを除けば、だが。
買い物をする人々の邪魔にならないように道の端へと寄れば、ヘヴィックも合わせてくれた。
「"《《月の回廊》》"を知っているか?」
「……へ?」
テオドールの言葉に、ヘヴィックは目を丸くして動きを止めた。
「月の回廊かぁ……よく知ってるね」
「……ああ。ここにあると聞いて来たんだ」
「うーん。なるほどね」
ふむふむと頷いたヘヴィックは、少し困った様子だ。知らないというわけではないようだが、考え込んでいる。
テオドールとシェリアが顔を見合わせると、ヘヴィックは「話は知っているんだけどさ」と口を開いた。
「女神像の鏡が入り口になっている──って伝わってはいるんだけど、今まで使えた試しはないんだよ」
「……その女神像がどこにあるのかは、わかるか?」
「それはもちろん、不思議な鏡だしね」
こっちだよ、と示して歩き出したヘヴィックの後を追う。
道を行き交う街の人々が、ヘヴィックにあいさつをしたり、シェリアの髪を褒めたりしながら通り過ぎていく。にこにこと愛想よく返事をしたりあいさつを交わしたり手を振ったりしているヘヴィックは、やはり街の人に慕われている様子だ。
「……不思議な鏡というのは?」
市場を通り抜けて人の波から遠ざかったタイミングで、テオドールは疑問をそのまま口にした。
「景色は映るけど、人や動物は映らないんだ。かといって、別に何が起きるわけでもなくて……不思議だろ?」
「……そうだな。確かに」
街の中央に位置する噴水の女神像がある広場を通り過ぎる。
遊んでいる子ども達がこちらに手を振ってくると、シェリアは少し遠慮がちに手を振り返った。そんな彼女の様子に、テオドールはふっと目を細くした。こうしていれば、本当にただの少女だ。
「この中だよ」
ヘヴィックが肩越しに振り返った。彼が示したのは、白亜の壁が美しい小さな建物だ。入口へと繋がる階段もまた、水に満たされている。
この先にある。ヘヴィックが不可思議だという鏡が。扉になっている鏡が。
シェリアは少し胸がざわめく心地が落ち着かなくて、テオドールに身を寄せた。
「……大丈夫だ、シェリア」
そんな彼女の手を、テオドールの大きな手がやんわりと握った。





