プロローグ「希望か災厄か」
飛ぶことはできないけど
跳ぶことはできる
その後のことは知りませんけれど
逃げる兎はあえかなる世界で魔法を見る
プロローグ.希望か災厄か
「ハルちゃん、あの子飛ぶよ」
逢魔が刻、という時間帯だろうか。真夏の太陽は一日の労働を終えてその身を彼方に臨む市街地に半分程埋め、さらにその姿を追うように黒鳥の大群が瑠璃色と緋色が混じり合った空を羽ばたいていく。そんな空の状況に呼応するかのように『私立港の丘中学校』の真面目な生徒たちは、きっちりと部活動終了時刻を守り、すでに大半の生徒は帰宅の途についていた。そのおかげで、完全下校時刻までにはまだ多少時間があるのだけれど、現時点で敷地内に人の気配はそう多くはない。そして、元々その敷地内に忍び込むことを目論んでいた私たちはそんな好条件を見逃すはずがなかった。
男子サッカー部と思われる集団が校門から出ていったことを見届けた瞬間、身を隠していた自動販売機の影から一気に飛び出した黒廼所長。私も一拍遅れながらもその背中を追い、堂々と正門から港の丘中学の敷地内に侵入した。母校でもなければ縁もゆかりもない……どころか、今日初めて訪れた見知らぬ私立中学校の高級車ばかり止まっている職員駐車場。しかし、事前に下調べをしてあったのか黒廼所長は目的地……否、目当ての人物がいるであろう場所に向かって一切の迷いなく足を進め……そして、まさに駐車場を走り抜けようとしたその時、私達は遭遇した。
人が己の力だけで空を飛ぶ瞬間を。
校舎の屋上から飛び上がったそのシルエットは僅か零コンマ数秒の間、燃えるような夕陽をその全身に浴びた。その姿にギリシア神話に登場するイカロスの姿を重ねてしまったのは、彼の物語の結末と今まさに眼前で起こっている出来事の結末とを無意識に結びつけてしまったからだろうか。粘性に富んだ赤銅色の業火に包まれたシルエットはたちまち空へ向かう力を失い、そしてそのまま地球の引力に従い固く舗装されたアスファルトに叩きつけられた。
「チッ、くそ……ハルちゃん、早く!あの子、手遅れになるぞ!」
「わ、わかってます!!」
すでに駐車場を抜け、校舎の影に覆われた薄暗い正面玄関前の道を走っていた黒廼所長は、私にそう声をかけると同時に走るスピードをさらに一段と上げた。私もそれに遅れまいと今まで以上に足に力を入れるが、通学用のローファーの走りにくさと日頃の運動不足が祟ってか、その距離は徐々に広がってしまった。
「あと、十秒で着く。内臓吐き出して脳症ぶちまけてても前回みたいにゲロ撒き散らすなよ!!」
「はあ、はあ……く、わかってますって!!」
「よし……見えた!! 大丈夫、あと『彼』には『三十分』程残ってる!!」
先行していた黒廼所長はすでに飛び降りたシルエットが男子中学生だとハッキリと認識出来るような位置までたどり着いたらしい。私は最後の距離を無呼吸走法で走り抜け、ひと足先に少年の元へたどり着いていた所長の足元に転がり込むように滑り込んだ。
「お、遅れてすみません。私――」
「ハルちゃん、謝罪とか言い訳とかそんなことはどうでもいいからさっさと始めよう。彼は……『飯塚拓海』くん。中学二年生の十四歳で陸上部に所属。家族構成は父親と妹が一人の計三人。母親は……二年前に死別してるね。ここまでで質問はある?」
「ん……ありま、せん」
「じゃあいつもの口上っぽいやつお願い」
一刻を争う事態の中で、私は気持ちを落ち着かさせるべく一度深呼吸をした。鼻腔を抜けるのは真夏のグラウンドの湿った匂い。野球部とサッカー部が部活動中土埃が飛ばないよう散水器でグラウンドに水を撒いていた所為だ。そして、その湿った匂いと混じり合っているのは、グラウンドと校舎の間に設けられた花壇で咲くマリーゴールドの独特な臭い。死者の日に供えられるというそのオレンジ色の花の臭いは、私の身体と思考から急速に熱を取り去り、これから行われる非人道的な行為に耐えうるまで精神を凍り付かせた。
「こんにちは、飯塚拓海さん。私達は人類最期の希望『パンドラボックス』です」
貴方のその最期の命で希望を一つ叶えてみませんか?
感想などございましたら
よろしくお願いします。