譲れない戦い(三十と一夜の短篇第9回)
世界はすっかり、悲しみにつつまれてしまった。
空には灰色が広がり、見上げた俺の心の中まで薄暗い空の色に染まってしまいそうだ。
肩をすぼめ、うつむいて歩く道の途中。光に満ちた幸せな空間を見つけて、ふらふらと吸い寄せられる。
一歩、踏み入ればそこは暖かく、中にいる人びとも優しい笑顔で迎え入れてくれる。通りすがりの俺なんかを歓迎してくれる。
それが嬉しくて、広くはない空間をあちらこちらと歩き回り、時間をつぶす。
けれど、ここにずっとは居られない。俺の居場所はここじゃない。外に広がる冷めきった世界を見つめ、意を決して歩き出す。
暖かさに満ちた空間から、ほんの少しのぬくもりを分けてもらい、笑顔で見送ってくれる人たちを名残惜しく思いながら、俺は出ていく。
一歩、そこから足を踏み出せば、待っていたかのように風が吹き付ける。
俺を包んでいたわずかな光もぬくもりもすぐに消え失せ、冷え切った風ばかりがひたひたと服の隙間を満たしていく。
懐まで染み込む寒風に身を震わせながら、分けてもらったほんの少しのぬくもりを抱きしめて、俺は安らげる場所を探して歩き続けた。
際限なき悲哀に身を濡らし、それでも止まることなく前へと進み、ついに辿りついた、幸せの園。我が楽園。
体じゅうの強張りは溶け、永遠のときをこの場所で過ごしたい、と思考までとろけてきたころ。
ぬくぬくと幸せに首まで浸かる俺の元に、どす、どすと何者かの足音が届く。
「あら、おかえり。あんたまた帰ってくるなり、そんなこたつに潜り込んで。ちょっと端に寄ってよ、入れないでしょ」
言いながら、遠慮なく入ってきたのは母ちゃんだ。ばさばさと乱暴に布をめくって入るものだから、俺の幸せなぬくもりが逃げてしまうではないか。まったく。
そう思いながらも、文句を言えば倍以上の小言になって返ってくることがわかっているから、言葉にはしない。ただ黙って、俺を包み込んでくれる優しいぬくもりに身を委ねる。
そう、最後に残された俺の聖域、その名は「こたつ」。
暖かい光に包まれたその場所へ、俺は吸い込まれるように入る。いや、入るのではない。還るのだ。そう、これこそが、俺の故郷。還るべき場所。
俺がうっとりとこたつに潜り込んでいると、頭上でがさがさと不穏な音がする。
「またこれ買ってきたの。あんた、ほんと好きよねえ。そんなにおいしい?」
そう言って母ちゃん、いや、暴君はこたつの上に置いた袋から取り出したものをちぎる。そして無造作に暴君の口に放り込まれる、ぬくもりのかけら。俺が持って帰ってきたのに、何という傍若無人さ。その恐ろしさに、俺はこたつに入っていながら背すじを震わせた。
「おいしいっていうか、懐に入れとけばちょっとはあったかいだろ。ていうか、なんで俺の肉まん勝手に食べるんだよ」
無残にちぎられた小さなぬくもりを想いながら、俺は戦う姿勢を見せる。戦う姿勢と言っても、実際にはこたつに首まで入り込んだままなので、まあ、気持ちの問題だ。
寒風吹きすさぶ帰り道に、たったひとつだけある俺のオアシス、コンビニエンスストア。そこで手に入れた肉まんという、ほんの小さなぬくもりを大切に抱きしめて帰ってきたというのに、母ちゃんにはその気持ちがわからないらしい。
「なんでもいいけど、これぬるくておいしくないわあ。ちょっとあっため直してきたら?」
俺の必死の抵抗など意にも介さず、暴君母ちゃんは勝手なことを言う。
だがその手には乗らない。たとえ肉まんをすべてむしり食べられようとも、俺はこたつから出たりしない。一度楽園に浸った体に、外の世界は寒すぎる。
「あ。そういえば、冷蔵庫にあれ入ってるわよ。あんたの好きなお菓子。おばさんが送ってくれたのよ」
暴君が甘い言葉でこたつの外へ誘い出そうとしてくるが、俺はそんなものに屈しない。
うっかりふらふらと台所に向かおうものならば、戻ってきたときには母ちゃんがででん、とこたつを占拠していることだろう。そうなれば、そこに俺の入る隙など残されておらず、隅っこに足先を入れることしか許されないのだ。
母ちゃんの甘言に騙されてこれまでに何度も悔しい涙を飲み込んできた俺は、もうそんな過ちは犯さない。なおも俺を誘惑する言葉を吐く声には耳を貸さず、体を丸めて肩まで幸せなぬくもりに浸る。
悲しい寒さに包まれた世界に春が訪れるその日まで、俺の戦いは終わらない。
頑張って阿呆な話を書いてみました。
自作の中でいちばん自分に似た主人公になったのは、なぜなのか……。