454 着々と準備が整う
Another side
「て、転職?」
「そう、転職じゃ」
もう密偵として生きることもできず、そして一生を後ろ指をさされて生きるしかないと思い落ち込んでいる悪魔の密偵にそう提案したムイル。
だけど密偵側からしたら何を言っているんだと理解ができない話だ。
ムイルと密偵は今会ったばかりの関係。
そこに信頼も信用が生まれるようなやり取りをした覚えはない。
凡人である自分には及びのつかない何かがあるのかと密偵は考えるが、それを気にする素振りも見せずにムイルはニカっと笑うと。
「なに、難しい話ではない。ヌシの主はヌシを捨てた。ならもう帰る場所もないのだろ?だったら、うちで働いても問題はなかろうて」
何という暴論。
普通に考えればこういった機密情報を扱っている人材をそう簡単に引き抜けるはずもない。
もし仮に引き抜けても、密偵を処分させるために追っ手がかかるのも常だ。
ムイルの言っていることは引き抜いた側の派閥を敵に回すことにも等しい。
下手に敵を作ったら次郎の身にも危険が及ぶ。
そんなリスクこの業界に触りでも知っていれば当然のように思いつく理屈だ。
どこの世界でも情報というのは値千金の価値がある。
それをムイル・ヘンデルバーグという存在が理解していないわけがない。
それを承知でムイルは言っているとしたら何かあると思い至るのは当然の帰結。
だが、密偵にとってはそんな事情を計り知る方法はない。
わかるのはこの話は想像以上にリスクがあるという事実のみ。
暗躍する側の存在にとって裏切り行為は絶対に見過ごせず許されない行為だ。
この稼業に身を費やす者にとって裏切れば追っ手が差し向けられその先に命はない。
例えそれが同軍の組織であっても、派閥外であればそれは確実に起きると言われる。
むしろ殺されるだけで済めばいい方。
殺されずに拷問にかけられ、洗いざらい情報を吐き出すカナリアに成り下がる確率の方が高いのだ。
そんな危険な橋を渡れるわけがない。
それならいっそここで自害をと思う密偵だが、自害を封じる首輪をかけられているのでそれもできない。
密偵の今はまな板の上に載っている魚だ。
煮るも焼くも捌くも自由自在。
そんな相手からの提案に、真意を測れず戸惑い、答えに窮している密偵。
「最初に言っておくが、別にワシは善意でヌシを助けるわけではない」
それは当たり前で当然のように聞こえているけど、中には善意で助けるアホもいると密偵は知っている。
だが、英雄と呼ばれるムイルがそんな情に頼った方法を使うかと聞かれれば否と答える。
「ヌシも知っている通り次郎君の地盤は盤石とは言い難い。必要な人材も足りず、諸侯からは最弱の将軍候補と言われている。それを打ち消すほどの地位も実績もない。仮に選抜に勝ち残り将軍になったとしても足元がおろそかでは将来的に危うい」
ナイナイ尽くしだなと快活に笑うムイルにさらに密偵は戸惑う。
「その地盤づくりを手伝えと言うのか」
「そうだな」
どう見ても明るい未来はないと言っているようなものだと密偵はさらに不安を駆り立てられる。
「そもそもなぜ俺なんだ。俺はハッキリ言って人を憎んでいる。そんな奴を手元に置くなんて正気じゃない。それに他の奴も誘っているのか?」
そんな密偵が出した結論は自身の組織の人材不足を急遽補うために、誰彼構わず声をかけて釣ろうという魂胆。
田中次郎という将軍候補の情報は聞いている。
成り上がりの将軍候補。
なぜかいろいろな将軍との交流があるが、それでも地力がないことで警戒はするが、あとからでもどうにかなると舐められている候補だ。
猫の手も借りたいという人材不足の候補として話を持ち掛けられたというのなら無理はあるが話の筋は通るし、理解はできる。
だが、それを受け入れられるかどうかは話は別。
地力がないということは、仮に裏切ったとしても守ってもらえないということだ。
先行きがない未来に誰が投資するのだ。
密偵は疑念の籠った目で目の前の英雄を見る。
言っては何だが、仮に将軍になれたとしても、他の将軍と比べれば一枚も二枚も劣るような人に英雄がなぜこれだけ入れ込み、そして人材確保に奔走しているのかが不思議でならない。
情報では英雄の孫娘がこの田中次郎の嫁にいっていると聞いていたが、もしかしてそこで弱みを握られているのではとも考えたが英雄であるムイルが黙って言いなりになるはずがない。
こんなことをしているのなら、むしろ逆に田中次郎を陥れる策を考えてもおかしくはない。
それなのにもかかわらずそんなことを考える気配も見せず、むしろ全力でバックアップしているように密偵には見えた。
そこで、ようやく密偵の中で田中次郎という存在に興味というものが芽生えた。
いや、正確に言えば密偵の中にも興味というものは抱いていた。
より正確に言うのなら興味の方向性で新しい物が生まれたと言った方が正確だ。
密偵の中であった田中次郎に対しての興味はあくまで将軍候補の一人で、敵として情報を得ようとする興味だ。
それに対するように密偵の中で芽生えた興味、それはすなわち人柄、もっと深めれば人徳という人の良し悪しを測る分野に対しての興味だ。
「いや、誘ったのは君だけじゃの。他の密偵たちは情報だけ吐かせて放逐した。今頃は必死に身を隠すための算段をしておるじゃろうな」
「!なぜ、俺だけ」
「これでも見る目はあるつもりじゃ、ワシの目でヌシは未熟で青いが磨けば光ると思った。それに」
「………」
そんな興味をさらに搔き立てるように飛び出てきた情報に密偵は目を見開く。
そしてさんざん注意しろと言われていたのにもかかわらず自身の評価に可能性を語るムイルにその先が気になり黙って話の先を待った。
「少し、ヌシは昔のワシに似ている。無鉄砲で高い理想を抱いて、ただ我武者羅に進む姿がの」
そして語られた内容になんだそれはと密偵は思った。
ムイルと似ているから誘った。
そんな風に聞こえた密偵はふざけているのかと一瞬思ったが、ムイルの表情は変わらず真剣なまなざしを密偵に向けていた。
「………俺が裏切ると思っていないのか」
「その時はワシの見る目がなかったというだけだ。次郎君に迷惑をかけないように後始末をするだけじゃよ」
その裏切りが怖くないのかとジッとムイルを密偵は睨めつけるが、拘束されている段階で怖くもなんともないと欠片もムイルは怯えを見せない。
裏切るなら裏切って見ろと言わんばかりに堂々としている。
そんな姿を見て元より、英雄が怯えるとも思っていない密偵は考える。
自分はトカゲの尻尾切りにあったと考えていい。
であれば、この先食っていくにはこの業界から足を洗って山奥でひっそりと隠れ住むか、新たな雇い主を見つけるしかない。
そのチャンスが目の前に転がっていて飛びつかないわけがないが、それでも警戒はしてしまう。
だけど、条件は悪くはない。
先行きに不安があるも、条件次第ではまだ挽回できる。
雇い主は知名度的には申し分なく、さらには新興勢力ということで出世の可能性もある。
そして密偵自身が持っている情報を合わせればさらに可能性は高めることができる。
この船が最新の船か、あるいは泥船か。
それを見極めるために時間が欲しいと願った密偵。
だから。
「考えさせてくれ」
「いいじゃろ、猶予は三日だ。それまでにいい返事を期待するぞ」
密偵は自身が抱いている迷いと向き合うことを選んだ。
そしてその回答を得たムイルは満足気に頷き、猶予時間を伝える。
ムイルからしたら次郎に関して興味を植え付けられただけで上等。
背を向け部屋を出ていくムイルの背を見て、今後の未来を考えるのであった。
それに対して捕虜のいる部屋から出たムイルは次の捕虜のいる部屋に向かって歩き出す。
「さて、これで8名かの」
「あの者はこちらに寝返ると?」
「寝返るとは言い方が聞こえ悪いの、まぁ間違いではないが」
「すみません」
部屋の外には護衛で連れて来ていた少々若い見た目のダークエルフが控えていた。
もし、万が一があった時のために部屋の外に控えていたが、ムイル相手ではあまり意味を成していない。
現役を退き、半ば以上に引退していた彼であるが、それでも彼を殺すのなら将軍位を連れてこないと大規模な被害は免れない程度の実力を持っている。
あの密偵が不意を打ったとしてもかすり傷をつけられればいい方だと護衛は思っていた。
毒を使用しても、その毒が回る前にその始末をつけられるとも知っている。
護衛とムイルの関係は、戦争の時に助けた時に恩を感じた氏族の系譜だ。
ムイルというダークエルフは色々なところに顔を出して交流を深めることが好きだ。
だからこそ交流によって友誼を結びムイルの誘いを受けたとも言える。
「彼も次郎殿が主催するパーティーに呼ぶのですか?」
「いずれはな、とりあえずは防諜対策を早急にまとめねば意味がないからの」
そして護衛の彼は何度か田中次郎が主催しているパーティーに参加し人柄を知る機会を得ている。
ムイルは次郎に黙り、他の貴族の推薦という形で信用に足る者には次郎のパーティーに参加させて見極めるように言っている。
それを経験させるとさせないとじゃ今後の展開が大きく変わると踏んでのムイルの判断だ。
実際、その行動には大きな効果があった。
田中次郎という人となり。
そして実力を知るという機会は、多大なる影響を与えている。
少なくともイスアルにいた人間とは違うことを知るか知らないかでは、次郎への対応が大きく変わった。
最初はムイルという旗で集まった集団であったが、段々と田中次郎という御旗に集う形になりつつある。
様々な種族が田中次郎に好意的に協力しようと思っている派閥のひな型が出来上がろうとしている。
他にも利益のために協力する商人や貴族もいるが、ムイル的には可能な限り次郎と交流を持てている派閥を主力にしたいので人選は遅れている。
徐々に大きく、そして頑強に、それが理想だとムイルは考えているから、焦りはしない。
予定から大きく遅れているとは考えているが、それでも焦る段階ではない。
他の将軍候補を輩出しようとしている勢力から見れば急激に拡大しているように見える。
ムイルの計画ではもう少し大きな派閥ができている予定だったが、思ったよりも他の派閥からの妨害が多くて苦労しているケースが多い。
その苦労が多いほど、田中次郎という存在が警戒され実力を認められていると思い少しだけうれしくなったのはムイルの心の中に秘めている。
「しかし、こうもあっさりと密偵を捕まえてしまうとは何か秘策でもあるのですか?」
「なに、相手が油断しているだけじゃよ。将来的にはこんな勧誘が許されないような輩が出てくる。今は小手調べじゃの」
そんな気持ちに大事に蓋をして、護衛から出てきた裏側のやり取りにどうするのかと問いかけられる。
密偵を防ぐことそれ自体はごく当たり前にやっていることだが、簡単に行えるようなものではない。
密偵は隠れること紛れることを本業としている。
そんな存在が様々な方面に放たれている。
隣にいる人が密偵かもしれないと考えが及びつくことは珍しい。
全ての人間を疑うことはまず不可能、だが、それでもムイルがこうやって次々に捕まえるのは練度がそこまで高い密偵ではないからだ。
そして今の次郎には領地がなく、守る範囲が限られている。
そのおかげで現在防諜というものに割く労力も減らすこともできている。
相手方もまだ本腰を入れていないからこそ対応できているとも言える。
ムイルが想像するような密偵、もしくは暗殺者が潜り込むようなことになればこうも簡単にはことは進まないだろう。
気苦労が絶えないが、それでもやりがいがあるとムイルは思う。
「血が滾るの」
そしてこの仕事を請け負っていることに対して楽しんでいる。
まだまだ若い者には負けていられないと心の底から湧き出る何かに背を押されつつ次の捕虜の部屋に到着する。
看守を見て次の部屋に入る。
次の人材は掘り出し物かどうか、楽しみにしながら暗躍に勤しむムイルであった。
Another side End
「そう言えば次郎君」
「なんですか?」
裏で何かが起きていることをなんとなく、ムイルさんの仕業かなと思うようになった常日頃。
今日も今日とて色々な人と出会い、話し、試し、試される一日を過ごし、最後の面会が終わった俺はテスター課第一課のフロアに戻ってきていた。
席に座り、そして残った残務をケイリィさん以外誰もいない空間で済ませている。
このペースで行けば、今日は少し早めに帰れて、娘たちの起きている姿を見れるかなと思っているとケイリィさんが話しかけてくる。
「前から思ってたけど、少し他とは違って丁寧にしている人とかいたけど、あれはどういう区別してるの?」
「なんとなく」
「なんとなくって」
「本当にそれだけだよ。探り方が他とは違う。それを感じ取ったからかな」
「何よそれ」
その疑問は今はここにいない働き者の義祖父に聞いてほしいね。
ケイリィさんの呆れた声を聞きながらそっとカレンダーに目を向ける。
「来月か」
そのカレンダーに大きく印がついている。
その日こそ俺の運命が分かれる日である。
今日の一言
準備は万全にしておくべき
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