171 日常のありがたみは、比べるものがあってこそ実感する。
疲れたと発するのも億劫になるほど、体に疲労がたまっている。
無言で目元を押さえ、椅子に寄りかかる。
件の企画でテスター全員が無事、精霊と契約し終えたあと、成功したと言える結果の陰で、帰還した俺を待っていたのは、報告書の提出だった。
嫁さん(候補)たちとの暖かな食卓がここ一週間の楽しみで、それ以外はダンジョンに入る隙すらなく、ただひたすらパソコンと向き合うか、調査員に事件の話をすることを繰り返していた。
「あー、ようやく終わった」
絞り出すような俺の声にもちろん元気の色など見えるはずもない。
むしろ、まだ声を出す気力が残っていたなと感心するくらいだ。
「お疲れ~」
「ですわね」
それは、同じ部屋で作業していた残りの責任者にも言えることだ。
事後処理、というのは面倒だというのを再認識するかのような疲れをにじませる声が向かいの席から聞こえてくる。
視線を向ければ、ケイリィさんは机に突っ伏したままで手を振りこの仕事の終わりを労わり、隣の席のノスタルフェルは心底疲れたとため息をこぼしていた。
「ああ、もう、わかってたけど、本当に面倒なことしてくれたわね。見てよこの報告書、精霊の森の被害報告をまとめろってどんだけ量があると思っているのよ」
「その言葉、エヴィア様の前で言えますの?」
「言えないからここで言っているんじゃない、それくらい分かりなさいって」
普段の喧嘩腰の対話も、今この時ばかりは迫力にかけている。
報告書は電子媒体に収まり、机の上自体は綺麗なものであるが、このあとそれを印刷すればその量はきっと、この机を埋め尽くすだろうと容易に想像できる。
「……やめましょう、今はそんなことしたくないわ」
「……あなたと意見が合うのは不本意ですが、そうですわね。この場は引きましょう」
しばらく、互いに視線だけを向けていたが文句を言い合う気力ももったいないと言わんばかりにため息を吐き、こんな時でなければ非常に珍しいものを見たと笑いの一つくらいは溢れていただろう。
体を動かすとはまた違った、精神を蝕むような疲れはステータスが向上した今でもきついと感じる。
「次郎君も、競技大会が控えているのに事務仕事が回ってくるなんて災難ねぇ」
「ええ、ですが、ここまでやればあとは来月の競技大会に専念するだけで済みますからね。ある意味では気軽ですよ」
だが、今回の報告書作成で一通りの事務仕事は終了した。
なので、先ほどケイリィさんに言ったとおり、あとは迫る競技大会に備えるだけとなる。
こんな事件があったのだから、競技大会を中止すればいいのにと思う部分もないことはないが、将軍の一人が倒れるというのは組織全体において想像以上に影響が出るものらしい。
なので武勇を示す競技大会は、新たな将軍を決める場でもありながら、雰囲気の改善をなすためのイベントでもある。
警備を強化することはあれど、そう簡単に中止にはなったりしないのだ。
「私からすれば、いくら規格外の精霊との契約をなしたといえ、人間のあなたがあの場に立つということが未だ信じられませんわ。まったく、不死王様や鬼王様は何を思ってあなたを推薦したのでしょうね」
話題が変われば、雰囲気も変わる。
そして、ノスタルフェルの言った言葉にケイリィさんは眉を釣り上げ不満の表情を作る。
このままいけば、また先ほどのやりとりの繰り返しになる。
「教官たちからすれば、面白そうの一言で事が済みそうな気がしますけどねぇ」
「「ああ」」
だが、そうはならないと思える言葉を切り返せば、ケイリィさんとノスタルフェルは納得と言わんばかりに同時に言葉を吐き出す。
あの教官たちの思惑を測ることなんて俺には難しいが、この感情だけは間違いなく入っていると断言できる。
逆を言えば、それ以外のことも考えているとも言えるのだがな。
「まぁ、今回はやれるところまでやってみますよ」
「あら? さすがは特級精霊と契約をなした次郎君。実は将軍の地位を狙ってる感じ?」
ヴァルスさんと契約したと言った時は笑えばいいのか驚けばいいのか、反応に困りながら祝福してくれたケイリィさんは今度はニヤニヤとからかいながら俺に野心を問うてきた。
思惑が行き交う場所に出るにあたって、胸を借りるなんて、最初から諦めているような言葉は使わない。
挑戦者であることは変えられないが、限界まで、今の自分の実力が魔王軍の上位陣にどれだけ食い込めるか測れるまたとないチャンスだ。
それを棒に振るつもりはない。
ケイリィさんは俺の言葉に対して面白そうに、逆にノスタルフェルは俺の言葉を無謀だと受け取ったのか、しらけた目を向けてくる。
「さて、どうでしょうかね。勝負は時の運、なんてことは言いませんが、負ける気だけは持ち込まないようにしますよ」
「あら、大胆」
「口だけで終わらないことを祈っていますわ」
大言を吐いた結果は、片や楽しみを見つけたと、片や大ホラ吹きが現れたと。
対極を示す彼女たちと会話をしていくうちに、仕事終わりの脱力感から回復してきて時計を見れば定時は過ぎているが、それでも一時間以内の残業で収まっている。
「さて、俺はそろそろ上がりますよ」
「は~い、君を束縛しすぎたらスエラが怖いもんね」
「そういうことですよ」
やることを終えればあとは帰るだけ、手早くパソコンの電源を落とし席を立つ。
「それではお先です」
「はい、お疲れ~」
「お疲れ様です」
仕事が終わり早く上がることに文句を言う上司がいない職場というのは素晴らしいと、内心で思いつつ。
臨時で借りていた会議室をあとにする。
社内はまだ社員たちが働いている部署もあるが、それと同じくらいに帰宅しようとしている社員もいる。
或いは、これから仕事だろうと思われる夜勤組の姿も見受けられる。
「おう、次郎、このあとどうだ?」
「あいにくと先約があってな、また今度な」
「嫁か?」
「ああ、かわいい嫁候補が三人もいてな」
「そうか! 嫁さん相手なら仕方ないか!」
すれ違うたび、知らない仲ではない相手と挨拶を交わしながら時折鬼から飲みの誘いをかけられるも、夕食をヒミクが作って待ってくれているのだ、角が立たないように冗談交じりで断る。
そんな行動を無駄にするわけにはいかない。
一番断りづらい、教官たちに見つかる前にそそくさと帰路を進む。
社員寮の上階部。
家庭用の部屋数の多いフロアの一部屋、無事に帰宅できたことに素直に安心し、鍵を取り出しトビラにさし開錠する。
「ただいま」
こうやって、帰宅の言葉に慣れ始めたのは最近だ。
今まで帰っても誰もいないことから言うことのなかった言葉だった。
そんな言葉を最初に口にしたときは、懐かしさと恥ずかしさ、そして嬉しさが混ざり合ったような感覚を味わったものだ。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいまメモリア」
どうやら今日はメモリアが出迎えてくれたようだ。
店内でのスラックスにエプロンという格好ではなく、室内での活動を想定したゆったりとした服装。
色合いはモノクロと、メモリアらしい配色ではある。
「二人は?」
「ヒミクは調理中ですね。スエラはあまり歩かせないように座ってもらってますよ。当人からすれば落ち着かないみたいですけど」
「だろうな」
身重ということで、色々と仕事を制限されているスエラ、家事全般の家の管理はヒミクがやっているのでもともと家でやることはない。
なので、主に仕事の制限がかかっているのは職場の方、基本的に残業は無しの方向で、過度の魔力運用も避けるようになっている。
特別待遇と言えるような環境、今まで率先して仕事をこなしていたスエラからすれば慣れない環境とも言える。
なんとなく、そわそわしているスエラの姿が目に浮かぶので、苦笑一つこぼしゆっくりメモリアと共にリビングに向かう。
そして近づくにつれ、夕食のいい香りが漂ってくる。
「今日は肉じゃがか?」
「わかりましたか」
「ああ、なんとなくそんな香りがな」
一人暮らしでは決して味わえない食事の匂い。
煮込み料理から香る、和風だしの匂いから今日の献立を予想したが見事に的中したようだ。
リビングにつながるトビラを開き、台所を覗いてみれば鼻歌交じりに調理する後ろ姿が見える。
「おお! 主、おかえりなさい。もうすぐ夕餉ができるから待っていてくれ!」
「ああ、いつもありがとうな」
「それが私の務めだから!」
「なら、素直に腹を空かせて待っているとしよう」
「うむ! 待っていてくれ」
今日も元気いっぱい。
桜色の割烹着姿の堕天使であるヒミクは、金髪を邪魔にならないようサイドテールでまとめ、お玉片手に俺の帰宅を迎えてくれた。
最初からある程度料理ができていたが、日本語を覚え、料理雑誌を読むようになってからメキメキとその腕を上達させている。
主に和食の上がり幅は顕著だと言える。
おかげで、空腹だと感じていた胃袋がさらに空腹を訴え掛ける始末。
そっと、上着を脱ぎメモリアが受け取ってくれるので手渡し、ネクタイも緩める。
そのままリビングに向かえば。
「おかえりなさい」
「ああ、ただいまスエラ」
先に席についていたスエラが迎えてくれる。
だんだんと目立ち始めたお腹のためか、締め付けるような服装や冷える服装を避け、白いセーターと深緑色のスカートという格好だ。
手に持っているのは、仕事の書類だろうか?
「仕事をもって帰ってきたのか?」
「ええ、職場では皆に気を使われてしまうので、それと、なんでもやってもらうのはその、落ち着かないので、せめて軽い仕事をと」
「ああ、なるほどな」
メモリアから聞いていたが、スエラの言い分はなんとなく理解できる。
今までやっていたことができなくなり、環境が変わるというのは戸惑うもの。
ましてや、自分は大丈夫だと思っても周りが止めるのだ。
加えてそれが善意の行動となればスエラとしては、嬉しい反面、面映ゆい感覚を味わっているのだろう。
「どんな仕事なんだ?」
「次郎さんも作っているダンジョンの報告書ですよ。最近は次郎さん以外のテスターの報告書も色々と内容が改善されていて、取り入れる部分が増えてきて嬉しい限りです」
そんな感覚を深く指摘することなく、むしろちょうどいい話のタネとしてヒミクが食事を用意してくれるまでの時間つぶしとして使わせてもらう。
「あいつらも慣れてきたって事だな」
「はい、おかげでダンジョンの改善も少しずつですが進んできました。いい傾向です」
「なら、次回挑む時は気を付けないとな」
「ええ、なかなか面白いアイディアもありますので」
「教えては?」
「あげません」
「残念だ」
ゆっくりとした時間が過ぎていく、最近の忙しい中でもこの時間だけは大事にしようと心がけていた。
今回の企画の際、出発するときに特級精霊との契約を控えていたことに不安にさせ、さらには事件に巻き込まれたことで心配をかけた。
結果論になるが、無事に両方成し遂げて帰ってみれば、五体満足に帰ってきてくれたことを喜ばれ、さらに精霊との契約ができたことを我が事のように皆祝ってくれた。
戦いという環境に身を置いていると、だんだんと日常という感覚があやふやになってくる。
だからだろうか、こういったなんでもない日常というものを求めている自分がいる。
「次郎さん、スエラ、仕事の話はそこらへんにしないと、食事ができましたよ」
「おっと、もうそんな時間か」
台拭きを片手に持つメモリアに注意され、台所を見てみれば浮遊魔法を使いいくつもの皿を浮かばせているヒミクの姿が見える。
スエラもその光景が見えたのか、すっと手を振るい書類をどこかに転移させる。
その後にメモリアは慣れた手つきでテーブルを拭く。
そして瞬く間に食事が並べられ。
各々の席に着く。
「それでは」
「「「「いただきます」」」」
作ってくれたヒミクの音頭で、食事は始まる。
「主、今日の肉じゃがはどうだ?」
「ああ、うまいよ」
「メモリア、そちらの醤油をとってくれますか」
「ええ、どうぞ」
何気ない空間。
何気ない雑談。
その空間はきっとこれからも変化を続けていくだろう。
だが、願うのなら。
この暖かさだけは、どうかなくならないでほしい。
今日の一言
忙しい最中でも、癒しというものがあれば人間は頑張れる。
たとえ、このあとに大仕事が待ち受けていても。
今回は以上となります。
面白いと思って頂ければ、感想、評価、ブックマーク等よろしくお願いいたします。
※第一巻の書籍化がハヤカワ文庫JAより決定いたしました。
発売日は2018年10月18日を予定しております。
また、同年10月31日に電子書籍版も刊行予定です。
内容として、小説家になろうに投稿している内容を修正加筆し、未公開の間章を追加収録いたしました。
どうかそちらの方もよろしくお願いいたします。