『どうか心の片隅に』プロローグ
塾の帰り、千夜は男が女子高生を殺しているところを見てしまう。だが千夜は通報しなかった。その理由は…。
プロローグ
千夜は塾での勉強を終え、暗くなった帰り道を歩いていた。
時間はもう九時を過ぎている。街路樹の向こうは公園、その反対側の車道には時折車が通る程度。
女子高生が一人で歩くには危ない道だ。
だが、千夜は特に恐怖を抱くこともない。何せ週三日、同じようにこの道を通っているのだ。今更恐れることはない。
ふと、絹を引き裂くような音がした。
「何だろ」
公園の方から聞こえた気がする。千夜は立ち止まり、そちらに目をやった。
暗くてよく分からないが、街路樹の隙間から見える広場には男が立っているように見える。
その時、車のライトで広場が照らし出された。
「っ!」
白いジャケットを着た黒髪の男。その足元に、制服姿の少女が倒れている。
その喉からは、血が溢れていた。
男がこちらを見る。彼の眼鏡越しに、しっかりと目が合った。
暗く深い、殺意を孕んだ瞳。
千夜はすぐに駆け出した。
鞄を抱き締め、必死で走る。自分が住むマンションを目指した。
辿り着くと、エントランスで自らの部屋番号を入力し、中に駆け込む。
エレベーターはすぐに下りてきた。乗り込むと、12階のボタンを押す。
――もし、もしも……。
エレベーターの扉が開いた時、殺人鬼が立っていたら。
首を振り、そんなホラーじみた妄想を打ち消す。
扉が開く――目の前には廊下が伸びているだけだ。
1207号室の前で、鍵を探す。財布に入れていたそれを震える手で取り、開錠した。
ドアを開け、中に入ると電気を点ける。
殺人鬼がリビングで待ち構えていることもなく、ほっとした千夜はソファに体を沈めた。
「そうだ、警察……」
スマートフォンを手に取る千夜。
「いや……」
だが、彼女はそれをぽとりとソファに落とした。
「それじゃ、つまらない……」
あの男の目、あれは普通の人間のものとは違った。
本物の、殺人鬼の目立った。
――見てみたい、あの男の、末路を……。
警察に捕まるのは、まだ早い。
千夜は息をつき、両手で顔を覆った。
「私も……、したい……」
もう一度、はっきりと繰り返す。
「私も、殺したい」