1.男と女
雪で一面真っ白なライア山脈。その山脈を縫う様に、20万を超える大軍が山脈を黙々と進んでいた。
蛮族侵略軍―――彼らの後方に控えるのは、巨大な浮遊城。ドレイクエンペラーが統べるその城は、過大な侵略軍の胃袋を支える補給庫の役割も担っていた。
浮遊城の周りをドレイクやワイバーンたちが取り囲んで飛翔し、警戒を怠らない。
確固たる武力をもって、此度こそデモンシティを攻め落とさんと、雪を掻き分け突き進んでいるのだった。
さて、浮遊城の奥まった一室。豪奢な室内には薔薇の香が立ち込め、部屋の中央には巨大な天蓋付きのベッドが鎮座していた。
ベッドの中、年若き少年が切羽詰まった声を上げる。上に乗る美女は艶やかに微笑むと、少年の細い首筋に舌を這わせ、ゆっくりと首筋に牙を沈ませる。
苦しげに息を吐いた少年の身体がブルリと震えた次の瞬間、身体中の力が抜け弛緩する。グッタリとシーツの海へ沈みこむ少年の身体。
少年の首筋には二つの小さな穴が開いており、そこからタラリと赤い筋が零れた。
唇に付いた紅をペロリと舐め取った美女は、少年に跨ったままベッドの外に流し目を送る。
「無断見学かしら? 趣味が悪くてよ?」
彼女の視線の先には、一人の男の姿。男の頭は禿げ上がり、頭の頂上に一本だけピロンと伸びていた。それ以外の髪の毛はコメカミから下、丁度後頭部の下半分を覆った所にしかない。
筋骨隆々の肉体を持った男は「困りますな」と凄みのある笑みを浮かべて、ベッドに近付く。
「皇帝を弄ばないでくださいませ、我が君」
「誘って来たのは、坊やの方よ」
軽やかに笑った美女は、美しい裸体を惜しげもなくさらして、男の前に優雅に立つ。
男の視線は女の胸へ釘付けとなり、ゴクリと喉を鳴らした。
その姿を女は楽しげに眺める。
薔薇の香りが強くなり、男は慌てて女の足許に跪く。
「我が君……」
女を見上げ、懇願するような眼差しをする男。
獰猛な雰囲気の漂う男の見せる従順な姿に、女は満足げに微笑む。
「首尾は聞きたいわ」
「以前お伝えいたしました、魔槍を持つエルフの男。彼の者をデモンシティに送りこみ、誘導いたしまして、不満分子を集めさせ、反乱軍を結成させました」
女は言葉も無く続きを促した。
男は、女の姿に不興を買ったのかと、慌てて言葉を重ねる。
「りょ、領主への報告書への改ざんは上手くいっております。領主補佐官に付けた間者からの報告ですと、領主へは改ざんされた文書しか渡っておりませぬ」
「領主……フラン公爵、ね」
女は唇を引き攣らせる。
自分の妹(眷族)の中でも見目麗しい者を周辺諸国の使者に仕立て、ハニートラップよろしく送りこんだ。
ところが、誰ひとりとして成功しないのだ。
事前に得た女好きと言う情報。コレは使えるとほくそ笑んでいたのは最初のうちだけで、自身が腕によりを掛けて仕込んだ女たちが陥落させられるのを目にして、女は焦燥に駆られる。
自分の思惑では、今頃、デモンシティに他国の軍隊が入り込み、混乱をきたしているはずなのに、それが敵わない。
何処で計画が狂ったのかと、眉根を寄せたが、自分の思い通りに進まないのも一興だと考え直す。
男は、女の不機嫌な様子に慌て、誤魔化す様な笑みを浮かべる。
「神殿からの援軍を受け入れさせ……反乱軍の戦力の増強を名目とした、神殿の介入を許しました。今後、各教会の思惑が入り乱れ、混迷することは間違いありません。そこに蛮族軍が突入すれば……」
(そう……フラン公爵如きがどう動いた所で、一人でデモンシティを我らの手から守れるはずもないのよ)
男の言葉を聞き流しながら、女は自分自身に言い聞かせる。
ふと、女は耳にした噂を確認した。
「デモンシティで、魔神将ゲルダムの目撃情報が有ったわね。確認は取れて?」
「あれは、魔神将ゲルダムを見たと言うよりも、ヤギ頭の大男を目撃したというモノだったはず……大方、ヤギの頭を被ったトロールとでも見間違えたのでしょう。まさか、魔神将とあろう者が、あんな地方の一都市に現れるはずが無いかと」
「それもそうね」
男の言葉に、女は軽く頷いた。
そして、嫣然とした微笑みを浮かべ、ゆっくりと身をかがめる。
男の頬に女のたおやかな白い手が伸び、そっと挟む。
「必ず……デモンシティを、混乱のるつぼへと陥れるわ」
「もちろんでございます、我が君」
女の動く唇から目を逸らす事の出来ぬ男は、トロンとした眼差しで女を見つめる。
女は唇の端を持ち上げ、「楽しみだわ」と誰に言うともなしに呟いた。
「可愛い私の娘(玩具)……私は、優しい母親だから、貴方の居場所は全て壊してあげるわ」
人族と蛮族が安穏と暮らす場所なぞ、存在することは許さないと女は嗤う。
アレがその場所を愛するのならば、目の前でたたき壊し、絶望する顔を眺めよう。
その瞬間が訪れるのが楽しみで仕方が無いと、女は微笑んだ。
その微笑みは童女のように無邪気で、残酷な物。
「玩具には、安息の地なんて、存在することが悪いのよ……ねぇ、そう思わなくて?」
「御意に」
女がそう呟いて微笑めば、それを目にした男は夢心地で頷く。
そして、我慢が出来なくなったように目の前の至高の存在を抱きしめた。
女がいざなう様にベッド近くに備えられたソファに倒れた瞬間、激しい衝撃が浮遊城を襲った。
「残念、邪魔が入ったわね」
クスクスっと女は笑うと、男の唇に指を這わせた。
男が言葉を発するよりも早く、女の姿が消え、その場には一匹の蝙蝠が現れる。
「我が……」
「御褒美は、次の機会にあげるわ」
興がそがれたような女の声が響き、呆然とする男を尻目に、窓から蝙蝠が飛び立った。
あとに残った男は、もう少しで手にする事の出来た僥倖を掴むように空に腕を伸ばし、ガックリと首を垂れるのだった。