1.夜に響く声
東の空が白み始める時刻。
遠慮がちに回るドアノブがカチリと音を立て、ギギーと呻くような声を上げて扉が開いた。
忍び足で入って来る気配に、レッドはベッドの上で座り、そちらを見た。
「ブロウ」
小さくもシッカリとした声に、入ってきた女は動きを止め、レッドを見た。
「レッド……起こしたかしら?」
「ここにも聞こえたから―――」
隣室から響いたリリアの悲鳴。
喫茶店『リリアパイ』従業員への福利厚生だと宛がわれた部屋の壁は薄く、狂ったように叫ぶリリアの声と、それをなだめるフランの声が漏れ聞こえてくるのだ。
ブロウは諦めたように息を吐いた。
「リリアたんは……」
「先日、ドレイクエンペラーとの話し合いに行ったでしょう?」
ブロウは苦い笑みを浮かべる。
「蛮族との話し合いは、無謀だったわ。全然話し合いになんてならなくて、結果的に逃げ帰って来たのよ」
ジッとレッドはブロウの顔を見る。
ドレイクであるレッドも、ラルヴァであるブロウも夜目が効く。暗闇でも昼間と変わらないように見えるのだ。
だから、レッドの目に、痛ましそうな表情を浮かべ隣室を見るブロウの姿がハッキリと認識できた。
しばらく無言でいたブロウだったが、ゆっくりと口を開く。
「追手を振り切り、逃げ切った後。どれくたちの本拠地が見える場所に飛行艇をセンジュは停めたの―――どれくいたちの本拠地って凄かったわよ。城が空に浮いてたんですもの」
「ブロウ。私が聞きたいのはっ!」
語気を荒く結論を聞きたがるレッド。
帰って来てから、雰囲気が変わったのはリリアだけでは無い。
フェイもめっきり口数が少なくなり、何かを振り切る様に首を振ったかと思えば、気ぜわしげにリリアを見ることが増えたのだ。
正直に言えば、まさかリリアのことを、とレッドは不安に駆られた。
だが、向ける瞳の色が恋情ではないと何故か判ってしまったのだ。
それでも、自分が知らないところで何が有ったのだろうという疑問が渦巻く。
やっと、それが分かるのだ。
見のうちから溢れだす様なじりじりとしたものが、レッドを焦らせる。
「20万もの蛮族軍が居たわ。雪をかき分けながらライア山脈を突き進んでいるの。アレが、全部、デモンシティに来たら……ココはひとたまりもないわ。それほどの圧倒的な戦力」
俯くブロウの表情は見えない。
「浮遊城から、食料をはじめとする物資が補給されるの。空から陸上から、襲われたら……いくらデモンシティでも太刀打ちできないわ」
ゴクリと唾を飲み込んだ。
「エミちゃんが居たとしても、果たしてエミちゃんは、此処を護るために戦うかしら?」
ジッと自分の手を見つめるブロウ。
グッと握っては開き、開いては握りを繰り返す。
「センジュは、リリアにビー玉を差し出したわ。信号弾の大きい物だと言っていたわね―――そのビー玉を城にぶつければ、城は木端微塵。どんなに強力な蛮族だろうと肉塊一つ、骨の欠片一つ残らない」
「……もしかして?」
レッドはポツリと言葉を零す。
その言葉を耳にして、コクンと頷いたブロウは答えた。
「リリアが投げたわ。私たちは、あの子に押しつけたのよ―――蛮族20万の始末を」
ブロウはゆっくりと息を吐き、吸った。
ゆっくりとレッドを見るブロウの瞳は、何の感情も映っていなかった。
「私は、この街が好き。守りたい―――彼女が躊躇うのならば私が、とも思ったのよ。でも、彼女は自分で決断したわ」
また、隣室から叫び声が聞こえた。
それは、20万の命に対する贖罪か、敵とはいえ多数を殺したことへの良心の呵責か?
「行かなきゃ……」
ブロウは立ちあがる。
レッドは何も言わず彼女の後姿を眺めていた。
「私は、あの赤く染まった空を忘れられないわ」
呟いたブロウは、そのまま部屋を出て行った。
しばらくして隣室からの叫び声は止み、とたんに辺りは静寂に包まれる。
その日、ブロウは部屋に戻ってこなかった。
通常通り喫茶店に出勤してきたブロウは、何時ものブロウだった。
少なくとも、レッドの目には、そうとしか見えなかった。