side:Hime 其の壱
窓から差し込む強い日差しに気づき、あたしが目を覚ましたのは、何時間くらい経ってからだろう。
時間を確かめるために、あたしは無意識に、普段は胸ポケットに入っている携帯電話を取り出そうとして、あまり大きいとはいえない自分の胸を直にぺたんと触ったところで、今の状況を思い出した。
ベッドを見やると、未だに八雲はスースーと気持ちよさそうに寝息を立てている。あたしは部屋の中を見渡し、時計を探したが、どうやら八雲の部屋には、時計というものは存在しないようだった。
仕方がないので、あたしは身体に掛け布団を巻き直し、日の差し込むベランダへと続く窓に近寄り、カーテンに手を掛けた。
すっと、自分の手がカーテンをすり抜ける。
「めんどくさいなぁ」
つぶやく。
そういえば、明さんはカップに神力を注いで、あたしに触れるようにしたって言ってた。だったら、あたしにその神力があるなら、同様の事をすれば、カーテンが触れるようになるのかな。
あたしは、カーテンに手を掛けて(触れないのだけれど)指先に意識を集中してみた。
…なにも、起きない。当然と言えば当然かも。そんなに簡単に事が運ぶわけがない。単なる一女子高生であったあたしに、いきなりそんなことができるわけないじゃないか。
仕方がないので、カーテンの隙間から外を見て、太陽の位置を確認する。
太陽は、すでに真上ほどにきている。時間は、昼12時を過ぎたあたりだろうか。
あたしは、卓袱台の前に移動し、腰を落ち着けた。卓袱台の上には、コーヒーを飲み干した2つのカップが置きっぱなしだ。
神力を使うって、どういうことだろう。明さんは、服の顕現も出来ると言っていた。ヒントは、イメージ力だとも。だったら、あたしが服を着ている姿を、自分でイメージすればいいってことなのかな。それとも、服そのものをイメージして、目の前に服が現れるとか。
あたしはとりあえず、目を瞑って、自分の目の前に服が置いてある事象をイメージしようとしてみた。
とりあえず、下着を何とかしないといけない。目の前に、あたしに合うサイズのブラジャーとショーツが置いてあるイメージを強く念じてみる。
う~んと唸って、ぱっと目を開ける。
何も出ない。
「ほんっと、めんどくさいなぁ。こうじゃないのかぁ」
頭をぼりぼりと掻き、次の手段を講じてみる。
次は、あたしが服を着ている感じをイメージ。下着は、造形のディティールが難しそうだから、簡単なのをイメージしてみよう。
あたしは左足を掛け布団から出し、靴下をイメージすることにした。
「黒のニーソックス…黒のニーソックス…」
3分くらい、自分のつま先を見ながら、ぶつぶつと呟きながら凝視を続けてみた。するとどうだろう。つま先がうっすらと光り、素足だった足先から、徐々に黒い靴下を履いている姿が具現化されてきた。それが膝上くらいまで来た段階で、イメージをカット。
「できたっ!」
次は右足。掛け布団からはだけ出して、同様に念じながら右足先を凝視する。
すると、左足のニーソックスが具現する時間よりも短く、右足はニーソックスに包まれる。
「なるほど、イメージ力ね。要するに、あたしが知ってるものであれば、こうやって出すことができるのかぁ」
黒のニーソックス、それは、昨日の夜にあたしが身につけていたものだ。ということは。
「制服なら、すぐ顕現させられるのかなぁ。」
すっと立ち上がり、身体に巻いていた掛け布団を足下に落とす。靴下だけを身につけた、ずいぶんと恥ずかしい格好だけど。
はっと、胸を両手で隠し、ベッドの上の八雲を確認する。八雲は相変わらず寝息を立てていて、あたしはほうっと胸をなで下ろす。
今度は、昨日着けていた下着をイメージしてみる。青い横ストライプ柄のショーツと、同じ模様のブラジャー。お気に入りの下着屋で買った、セット品だ。
下半身、自分の胸と、順番にイメージしながら見る。すると、ぽんぽんっと、自分の下半身と胸に、下着が装着された。
慣れると、意外と簡単だった。服をどんどんと想像し、自分の身につけてゆく。"着る"という手間が省けるのは、いいことなのか悪いことなのか…。
数分後、そこには、成城高校の制服に身を包んだあたしがいた。唸りながら伸びをひとつ。
「さてっと、次は…」
次に検証すること、それは、"どれだけ離れれば、八雲との接続が切れるのか"だ。
とりあえず、眠っている八雲を中心に、部屋の壁沿いに歩いてみよう。ベランダ前から始まって、正反対の部屋から出るドアの前まで移動。部屋はおおよそ8畳だから、半径3mくらいかな。
足下の光る紐に注意しながら、ぐるりと回ってみるが、変化はない。
次は、ベランダまで出てみる。カーテンも窓も開けることが出来ないのだから、そのまま体当たりですり抜ける。その2畳ほどのベランダには、小さな物干し台以外は何もない。
ここは本当に、年頃の男性の部屋なのかな。あたしは、友人とか、知人とかの男性の部屋には、生まれてから一度も入ったことがない。なにせ、この歳まで彼氏すらいないという恥ずかしい経歴の持ち主だから、考えようにも比較対象がないのだけれど、テレビドラマとかで出てくる男性の部屋は、もう少しインテリアとかにも気を遣っているように思う。
ますます、八雲という男性が解らなくなった。
ベランダから、外の風景を見渡す。遠くに、建築50年になろうという塔京スカイツリーが見える。PM2.5などの大気汚染によって少し霞んではいるけど、その距離から、間違いなくここは新塔京の中心であるみたいだ。下を見下ろすと、階下の部屋が1つ、2つ…7つ。ってことは、ここは8階ってことか。足下には片側1車線の道路が横断し、多くの車と、人々が往来している。立地条件としては、けっこういい物件なのかも。でも、家賃は高いだろうなぁ。
ベランダの端っこで、八雲からおおよそ5m。光る紐は、依然と変化を現さない。結構、遠くまで行けるのかも?
あたしは、部屋の中に戻る。ベッドに目をやると、また八雲の寝てる位置が変わっている。結構、頻繁に寝返りをうつみたいだ。寝相悪いなぁ。ふっと、あたしは卓袱台の前に放置した掛け布団に気がついた。
「ま、まあ、これくらいしてあげてもいいよね」
あたしは呟いて、掛け布団をゆっくりと八雲の身体に掛けてあげる。その途端、八雲は掛け布団を頭まで引っ張り上げて、すっぽりと丸まってしまった。あまりにも素早いその行動に、あたしは思わず、くすりと微笑んでしまう。
部屋のドアをすり抜けてみた。
どうやらキッチンのようで、大きめの食卓と、冷蔵庫、シンクと電気コンロ、食器棚があり、ドアは八雲の部屋を含めて5つ。1つは玄関に続くドアだろうけど、もう3つは何だろう。覘いてもいいのかな。
よく見ると、一つには"お手洗い"、もう一つには"フロ"と書いてある。お手洗いの文字が、ワープロで印刷したかのような整った文字なのに、"フロ"の文字はノートの切れ端に書き殴って貼ってある。きっと、お手洗いは明さんが書いていて、フロは八雲が書いたんだろうなぁ。性格が出てる出てる。
ということは、残る1つのドアは、明さんの部屋なんだろうか。2人は、同居…すなわち、ルームシェアしてるって事なんだね。
あたしは、明さんの部屋(だと思われる)のドアの前で、しばらく考え込む。
み、見てみたい!あんなに、物腰の柔らかい男性の部屋、しかもイケメン!きっと、凄く綺麗に整ったな部屋なんだろう。
入っちゃっても…いいよね。あたし幽霊だし、身体すり抜けるんだし、表に出ていいって言われたし!何かに躓いて転んで、壁をすり抜けちゃいました~って言い訳すれば!
よし!
あたしは意を決して、ドアに体当たりをかました。
すり抜けて、部屋の中に…
…とは、いかなかった。
どんっという鈍い音と共に、あたしの頭がドアにぶつかる。結構な勢いで体当たりをしたから、鈍痛が頭に広がり、あたしはその場に蹲る。
「痛ったぁ~。」
なんで、このドアだけ、すり抜けられないのよ!何か、特別なものがあるんだろうか。
壁を触ってみるけど、この部屋がある場所の壁のみ、すり抜けることができない。位置的には、八雲の部屋と隣り合わせってところなんだけど。
「見てみたい…。すっごく見てみたい」
あたしは、八雲の部屋に戻る。キッチンの壁がすり抜けられないのだから、八雲が寝ている位置、すなわち、ベッド側の壁も、こうやって封印されてる可能性が高いのだけれど、試してみたい。
八雲を起こさないように、ゆっくりとベッドの上に乗って壁を触ってみる。はたして、壁は同様に、あたしの手がすり抜けるのを拒んだ。
「なんだろう、ホントに。明さんが、あたしに覘かれないようにしていったのかな」
なんて用意周到。まだ出会って間もないのに、あたしって人間を知っていらっしゃる。こうなることを予測していたのかな、明さん。
再びキッチンに戻り、件のドアの前でまた考え込む。
ここまで来たら、女の意地だよね。何としても、覘いてやる!
と、現在の目的がずれていることに気がついた。今すべきことは、八雲とどれだけ離れれば接続が切れるかってことだったのに。
「お、覚えてろよっ、あとで絶対見てやるからなぁっ」
ドアに指をさして、捨て台詞をひとつ。
玄関へ続くドアをすり抜けて(今度はきちんとすり抜けることができた)、玄関のドアを開けようとする。そのとき、ふっと下駄箱の靴に気がつく。
脱ぎ捨ててあるスニーカーは、きっと八雲のものだろうけど、下駄箱にきっちりと収められている靴は…
「女物の…?」
そう、そこにあったのは、女子高生がよく履くローファーと、ちょっと高めのヒール、女物の革製ロングブーツ。
「なんで…?」
ってことは、封印してあったあの部屋は、女性の部屋だったってこと?明さんの部屋じゃなかったんだ。
急に、罪悪感が湧いてきた。明さんの部屋だったら、「覘いちゃいました、テヘペロ♪」と可愛く謝って済むかもしれないけれど、女性の部屋、それも、厳重に封印してあるのならば、覘くのは気が引ける。
「よ、よかったぁ。無理に開けないで…」
ほっと、胸をなで下ろすあたし。どうして封印してあるのかは、ちょっとだけ気になるけれど、あたしは当初の目的を果たすことにした。
再び神力を使って、昨晩あたしの履いていたローファーを身につけると、あたしは玄関のドアから、ゆっくりと表へ頭だけを出した。
きょろきょろと周囲を確認してみる。うん、人影はない。いくら一般人に視認されないとはいえ、偶然いた人に幽霊を見る素養があったら、すり抜けるのを目撃されることになる。そうなると、あらぬ噂がこの"速水邸"に立ってしまう。
通路に出て、左右を見渡す。部屋はこのマンションの隅の方にあるらしく、階の中央に、エレベータらしきドアをみつけた。表札を見てみると、「812速水…」それと、無造作にシンナーか何かで掻き消された、もう一つの名前。なんか、気持ちがもやもやする。
あたしはエレベーターの呼び出しボタンを押そうとして、指がパネルをすり抜けて気がついた。
「…何度も何度も…、あたしはアホかぁ!」
普段簡単にできることができない。それがこんなにもストレスになるとは。エレベータが使えないとなれば、階段を延々と降りていくしかない。でも、はっきり言って…
「め・ん・ど・く・さ・い!」
いまこそ、神力を注ぐっていうのを試すべきでは。服の顕現だって、上手くいったんだし、あの方法を応用すれば。
掌をエレベータのパネルにかざし、目を閉じてイメージする。内容は、あたしの指が、呼び出しボタンを押しているイメージ。掌に、意識を集中する。次第に掌が熱くなってくる。
人差し指で、ゆっくりと、呼び出しボタンがあった場所に触れる。
ボタンが、かこんと凹む感覚。
「やった、押せた!」
見ると、あたしのボタンを押した右手が、ほのかな緑色の光に包まれていた。意識の集中を解いた途端に、その光は消えてなくなる。
「なるほど、こうやるのかぁ。こんな短時間でマスターするなんて、あたしはもしかして天才かも!」
跳び上がって喜ぶ。さっき、自分をアホとか言ってたくせに…。つくづく、ポジティブシンキング。
あたしは上がってきたエレベータに乗り込み、先ほどと同じ要領で1階のボタンを押す。今度は目は閉じず、ボタンに意識を集中する。右手がゆっくりと緑色の光を帯び始め、再びボタンを触った感触がする。エレベータは動き始め、しばらくして1階へと到着した。 エレベータのドアが開き、ドアの前で数人の人が待っていた。思わず、ぎょっとする。その人々は、あたしの姿に気がつくことなく、エレベータに乗り込んでくる。あたしは、急いでエレベータを下りた。
再びドアが閉まり、昇ってゆくエレベータを見つめながら、あたしは少し肩を落とした。
「やっぱり、見えないんだね、あたしの姿…」
第三者に出会って、初めて突きつけられる現実だった。でも、これはっきりした。明さんの言っていたことは嘘ではない。今のあたしは、正真正銘の"幽霊"だ。
マンションのロビーは広かった。守衛室らしき窓もあり、入り口の中扉の前には、セキュリティシステムのコンソールも見える。住人の許可がなければ、他人はこのロビーに入れない仕組みらしい。
思い出したように、足下の確認。光の紐は、ちょっとだけ光を鈍らせている感じがした。見積もって、今の位置は八雲の部屋から50mくらいなんだろうけど、そうなると、100m離れることはできないんだろうか。
あたしはマンションの入り口の中扉の取っ手を右手で握り、内側に開いた。
「あれ?」
今度は、集中もイメージもしていない。一瞬だけ、右手が光った気がするけど、それはわずかな時間だった。
「慣れた…のかな」
今度は、外扉の取っ手を握ってみる。ふっと右手に緑色の光が宿り、あたしはドアを開けることが出来た。その刹那、再び右手は光から解放される。
そのとき、頭に疑問が浮かんだ。
「神力を宿したのは、取っ手だけだよね。それとも、ドア全体なのかな」
もし、ドア全体ならば、先ほどの"女性の部屋"のように、すり抜けようとしても頭をぶつけてしまうだけになってしまう。そうなると、八雲の部屋に戻るために、セキュリティシステムを通過しなければならない。それは、今の幽霊という立場上、難しいかもしれないから、是非とも避けたい。あたしは、ゆっくりとドアに頭を近づけてみる。
すっと、頭がドアをすり抜けた。
「よかったぁ」
安堵の一息。今度はしゃがんで、取っ手に頭を近づける。
こつん。
頭が当たって、取っ手はあたしの頭がすり抜けるのを拒んだ。どうやら神力を宿すのは、そのパーツごとに行わないといけないようだ。
あたしは、マンション前の通りに飛び出した。その途端に人とぶつかりそうになり、ぴょんとステップを踏んでかわす。
「外だぁ…」
両手を斜め上に伸ばし、伸びをする。深呼吸もついでにひとつ。都会の空気は決して美味しくはないけれど、部屋の中よりはマシだ。
さて、ここからが本番だよね。今、足下の紐は、光を鈍らせてるんだから、ここからは慎重に動いていかないと、紐の光が消えてしまうかもしれない。真っ直ぐに光が伸びるように、彼の部屋から正反対の方向へと歩みを進める。
60m…70m…80m。
そして、おおよそ100mにさしかかろうとするとき、紐の光がふっと消えた。あわてて、数m戻る。
「やっぱり、100mが限界なのかぁ。って、これ以上離れると、どうなるんだろ。いいことは起きないと思うけど、試してみようかなぁ」
一歩間違えば、あたしという存在が消えてしまうかも知れない。それとも、ホントの幽霊のように、元の身体に戻れなくなるとか。
あたしはしばらく、腕を組んで悩んだ。安全策を取るのなら、ここで諦めて八雲の部屋に帰るべきだろうけど。
意を決して、ゆっくりと移動してみる。八雲の部屋を見上げながら、後ろ向きに一歩づつ。
5歩ほど離れたところで、光の紐は光を完全に失い、形が薄れてきた。
「やばいっ!」
急いで100m圏内に戻るけど、ちょっと遅かったみたい。
急に走る、頭への激痛と耳鳴り。全身から力が抜けてゆく感覚があり、あたしはがっくりと膝をついた。頭をおさえて蹲る。
「や、やめときゃ…よかった…」
薄れてゆく意識。助けて、明さん、八雲!
あたしは、意識を失う中で、目の前のビルの上に立つ影に気がついた。
そこには、昨日の夜にあたしから逃げ出した、あたしの"身体"が、冷ややかな目であたしを見下ろしていた…。