バスルームからの旅立ち
高速を下り、突き当たりの信号を左折すると、
南北に伸びる2車線の国道に合流する。
国道の両側には、様々な店舗が建ち並び
生活感を漂わせる繁華な街並を横目に見ながら、
車を北へ走らせている。
この辺りも私が子供の頃と比べたら、随分と賑やかになったように思う。
昨夜、久しぶりに電話の向こうの彼と大喧嘩した…。
喧嘩と言うより、私から別れを切り出した‥。
違う女の名前で、私宛てにメールを寄越したのが原因だ‥。
どう考えても、浮気してる内容だった‥。
私は平気で浮気を許せるほど、心の広い女じゃ無い‥。
見た目は、誰もが羨むような彼だった。
背も高くハンサムで、洋服のセンスも抜群で、
私の自慢の彼だった‥。
だけど、浮気されると
もう二度と信用出来くなる‥。
一度離れてしまった心を、無理に近付けようとしても、
私には、それが出来なかった…。
繁華街を抜け、見慣れた交差点を右折すると、
閑静な住宅街へ入って行く。
最後にこの道を走ったのは、二年くらい前だったろうか。
付き合い始めた頃に、彼を誘って実家に帰って以来だ。
カーラジオからは、
山下久美子の[バスルームから愛を込めて]が流れている。
聴いていると、
まるで昨夜の私みたいな歌だった‥。
彼に別れを告げた後、
熱いシャワーを浴びて、悲しみと悔しさの涙を流した‥。
バスルームから出て、髪もろくに乾かさず一人、夜更けの高速道路に乗った‥。
昨夜の高速道路は、星も月も見えず、
そのまま闇の中に深く入って行くような気がして心細かった‥。
一人ぼっちの車の中で、嫌と云うほど孤独感に襲われた‥。
シャワーで悲しみを流したはずなのに、
とめどなく涙が溢れてきた‥。
あんなに好きだって言ってくれてたのに‥。
私なりに、尽くして来たのに‥。
それなのに…。
なぜ‥‥。
信じてたのに裏切られた時の衝撃は、大きかった‥。
その気持ちを、引きずりながら、
此処まで運転してきた。
ハンドルを握る手の甲には、乾いた涙の跡が残っていた…。
付き合ってた男に浮気された事は、初めてでは無かった‥。
浮気した男と寄りを戻すなんて、絶対にあり得ない‥。
今迄も、ずっとそうして来た‥。
何度か恋をして、裏切られて、別れを繰り返して来たように思う‥。
そんな経験を重ねる度に、
弱い女か、強い女のタイプに分かれていくのかも知れない‥。
そうだとすれば、私は自分では気付かないうちに、
相当、強いタイプの女になっているはずだ‥。
それが、浮気される原因なのか‥。
それとも、単に男運ないだけなのか‥。
私の気持ちの上では、一つの恋が終わっていた…。
私は、失恋すると決まって実家に帰る。
甘えたり、相談する訳では無いが母の顔を見ると安らぐからだ。
失恋を繰り返すうちに、自然と気持ちの切り替え方を、
身に付けたのかもしれない‥。
私の実家は、八ヶ岳の麓で、
小さな喫茶店を営んでいる。
父は弟が二才の時に、交通事故で亡くなっていた。
幼い弟と私を抱き上げては、遠くの山を眺める父の顔を、
二十数年経った今でも覚えている。
母は女手一つで、私と弟を育ててくれた。
貧しいながらも、不自由な思いをした記憶は無い。
何事にも一生懸命な強い母親のおかげだと思う。
そんな母の姿を思い出しながら
次の角を右折すると緩やかな登り坂になった。
道祖神を祀る小さな祠を過ぎると、
朝日を弾くフロントガラスの向こうには、
雄大な山々の連なった稜線が見え、
まばらに見える雪の白さが荒々しい頂きを一層、引き立たせている。
物心ついてから、何度も見てきた風景画のような景観に、
故郷に帰って来た事を、実感する。
道なりにしばらく走行すると、
右側にはスラリと背の高いカラ松林が続き
前方には、赤い鉄橋が見えて来る。
実家の喫茶店までは、
もう少しだ。
久しぶりに見る初冬の風景は、傷付いた私の心を癒やしてくれた。
橋の上で車を停めた。
およそ10mほどの高さから、眼下に見下ろす川の水は、
底石の形や、水際の砂の色さえも、はっきりとわかるほど透明で澄んでいた。
澄んだ川の流れは清らかで、
昨夜流した涙とは、対照的な気がした。
凛とした空気を思い切り吸い込み、
周りを見渡すと、懐かしい風景が広がり、
傷心した私を、優しく包んでくれる気がして、
また涙が溢れて来た…。
少し気持ちを落ち着けてから
実家である喫茶店のドアを開けた。
そこには 開店準備をする母の姿があった。
突然帰って来た娘に、特別 驚く様子も無く、ただ一言
おかえり
と微笑んで、ストーブに火を点けてくれた。
店の中が暖まる頃、
窓際のテーブルに着く私に、カフェオレを持って私の向かいに座った。
店内には母の好きな山口百恵の[いい日旅立]ちが流れていた。
今年は雪が降るのが早かったと、最近の様子を話していた。
私は曖昧な返事をしながら、温かいカップを握って窓の外を見ていた。
白い窓からは、広大な景色が何処までも続いて、
失恋したくらいで落ち込んでいる今の自分が、
やけにちっぽけに思えて来た…。
昨夜から一睡もせずに、何度も泣いた私の顔が、余程ひどく見えたのか、
奥の部屋に布団を敷いておくから ゆっくりお休み
精神的に疲れている私を気遣って、そう言ってくれた。
多くを語らず、どんな時もさり気ない優しさで包んでくれる母と、
久しぶりに和やかな時を過ごした。
千葉に戻る私に、
どんなに暗い夜だって、
朝は、必ずやってくるのよ。
‥‥。
一生懸命に頑張っていれば、いつか、きっと…。
きっとね…。
有希子、躓いたら
また、いつでも帰っておいで。
微笑みながら、見送ってくれた。
いつでも温かい母の有り難さを感じながら、車のドアを閉めた。
首都高湾岸線を下りた時には、明け方だった。
まっすぐ部屋に帰る気にはなれず、
マンション近くの埠頭で車を停めて、海を眺めていた。
私は海を観ながら、
母の好きな[いい日旅立ち]を口ずさんでいた。
励ましてくれた母の言葉を思い出したら、
涙が頬を伝って落ちた。
悲しい涙なんかじゃ無い‥。
濡れた頬が乾いたら、また歩き出せる。
母の言葉を信じて歩いて行ける。
人は、過去に向かっては、歩いて行けない。
何度立ち止まっても、前に進むしかないんだ。
海から昇り始めた太陽が、眩しいほどの光を放っていた。
その光は、私の希望を照らしてくれる光に思えた。