前編
『今日の晩御飯。
ご飯、みそ汁、サラダ、冷しゃぶ。ぽん酢と冷しゃぶ、サラダの皿は冷蔵庫。皿はシンクに置いといて。起きたら洗うから』
食卓に食器が逆さまに置いてあり、その後ろに卓上型の小型ホワイトボード。
時刻はもう23時を過ぎていて、透の姿は一階には見当たらなかった。
「……また腕を上げたな」
一人で静かな晩飯を済ませ、せめてでも、と食器を洗う。
いつからだろう。息子との会話が無くなったのは。
いつからだろう、起きている透の姿を見なくなったのは。
妻はいつの間にか家に帰って来る回数が減り、そして姿を消した。結婚指輪と離婚届、そして俺とはもうやっていけない、と短いメモを残して。
思えば仕事に埋れて、妻を、家庭を顧みる事が少なかった。だから俺の元から去ってしまったんだ。
中学生だった透もそれに気付いていたはずなのに、俺に何も言っては来なかった。いつも通り、表情も少なく淡々と日常を過ごすだけ。
俺はいつも早朝に出勤して、毎晩残業で帰宅は深夜。規則正しい生活サイクルを送る息子の透の姿は、部屋をそっと覗いて見る寝姿だけで。
いつも構ってやれなくて、勉強一つ、学校の事一つ見てやることが出来ていない。
透も俺が、そうする事が難しいのを知ってか知らずか、何も言ってこない。
学習参観だって、三者面談だって。俺がその事を知ったのは、当日、しかも行事が終わった後だった。行事を知らせるプリントは、ゴミ箱から見つけた。
透に聞けば、淡白に答えただけだった。
「父さんは仕事が忙しいだろ。
言ったところで来れないのは決まってるんだから、言っても言わなくても同じだ」
それは、俺に父親としての役目を果たさなくても別に良い、と言ってるかに聞こえた。でも、何も言えなかったんだ。
確かに透の言い分は最もで、言われた所で行ける時間では無かったから。
透の高校も、親であるはずの俺には何も言ってこない。きっと、透が先生達に連絡は控えてくれと頼んだのだろう。
今はまだ、高校一年だから受験期でも無い。父さんが手を出さずとも、僕は生活出来ているから、と言う姿が浮かぶ。
……俺は、父親なのに。何も出来ていないし何も知らない。
透が部活の入部希望用紙を食卓に置いていたことがあって、それに天文部、と記されていた。
俺と同じ、天体観測が好きなのだと、それくらいしか……俺は本当に知らないんだ。自分の息子の事を、何も。
いつも、玄関には透の学校の荷物が鎮座している。寝る前に翌日の準備を済ませ、それから就寝するかららしい。
そんな荷物の中には、市立図書館のバーコードが付いた本も何冊かあったりもした。
俺には読む気も起きないような、分厚く難しそうな小説や図鑑。時には数学や英語の参考書が混じっていた。
それを見ることしか、息子を知る術が無いんだ、俺には。そうして知る度、透がどんどん俺から離れて行く気がする。
恐ろしいんだ。父親らしいこと一つ出来ずに、透が独立してしまいそうで。
透と話したいのに、何から話せば良いのかすら分からないまま、起きて会うことも無く日は流れていく。
そしてある晩。
深夜に帰宅した俺は、いつも通り透が作ってくれた晩飯を食べて、彼の二階の部屋へと向かった。
肩まで布団を被り、寝ているいつもの寝姿を見るために。
だけど。
その部屋に、その部屋の主の姿は無かった。
「……え?」
うそだろ……?
二階の部屋全てを捜しても、家中捜しても、透は居なかった。
一体、何処に。
脳裏に、離婚届を置いて消えた、元妻の事が過ぎった。
もしかして……俺が仕事に感けて、お前を見てやれなかったから。
だからお前まで、去ろうとするのか?透ーー……。
本当に一人きりになってしまう、そんな恐怖に気付いた時、後悔と共に浮かんだのは愛情。
俺が仕事に感けていても、透は何も言わずにいつも晩飯を用意してくれていた。けれど俺は全くと言っていい程に、相手もしてやれていない。
それでも。お前を愛してるんだよ透。
俺をダメな父親だと罵って良い。八つ当たりされても構わない。
だから……俺を一人にしないでくれ。
非常識だとは思ったが、透の担任であり、天文部顧問の教師へと電話を掛け、学校へ車を飛ばした。
“彼なら学校の屋上に居ると思いますよ”
若い教師の声が脳裏にいやに反響する。
“お父さん。僕から言うと彼は嫌がるかもしれませんが、透君、いつも一人なんですよ。知っていましたか”
そんな事、知らない。
“僕は、彼が友達やクラスメイトと一緒に過ごし、笑う姿を見たことがありません。窓際の自分の席で、読書して過ごしていることが殆どですし……時折とても遠い眼をしていることがあります。
ご自宅で学校の事を話したりしていますか”