封印を守り続けた聖女を「役立たず」と追放しましたが、崩れゆく扉の後始末は、そちらでどうぞ~最果ての封印塔で、私は静かに鍵を返します~
「聖女エルフィーナ、貴様を封印塔の管理職から解任する。貴様の力など、もう不要だ」
黎明の封印塔、その最上階の大広間に、大司教ガルドの声が響き渡った。
金糸の祭服に、指には過剰な宝石。脂の乗った顔に浮かぶのは、勝ち誇った嘲笑だ。
私は――エルフィーナ・レーゲンハルトは、袖を留めた実務的な聖服の裾を正し、静かに顔を上げた。
手には、使い込まれた観測帳と羽ペン。三百年分の点検記録を継いできた、私の武器。
「……解任、ですか」
喚くつもりはない。取り乱すつもりも。
ただ、前世で嫌というほど見てきた光景だ。数字を読めない上司が、現場を知らないまま予算を握り、地道な保守を「無駄」と切り捨てる。
(祈りで扉が保つなら、三百年前に誰も苦労していないんですけどね)
胸中でそっとツッコミを入れる。
「そうだ。祈りもせず帳簿ばかり眺める女に、聖女の資格などない。封印なんぞ、とうの昔に安定しておる」
ガルドの隣では、華の聖女ミレイユが金髪を煌めかせ、扇の陰でくすくすと笑っていた。
「ふふ、そうですわ。古い扉なんて、ただの飾りですもの。誰でも守れますわよね?」
飾り。
その一言に、私は内心で小さく息を吐いた。
この扉の向こうに、何が封じられているのか――この人たちは、本当に理解していない。
《虚喰いの獣》。かつて世界を滅ぼしかけた大厄災。それを封じる扉を、私は毎日、微細な綻びを縫うように補修してきた。
派手さはない。祈りの光もない。ただ、数字と、記録と、手順だけ。
それでも、この塔が三百年保たれてきたのは。
「何か仰った? 地味な仕事しかできない方は、黙っていた方が身のためですわよ」
ミレイユが勝ち誇る。私は何も言わなかった。
広間の隅で、見習い聖女のティルナが震えていた。栗色のお下げを揺らし、そばかすの残る頬を青くして。
「そ、そんな……! エルフィーナ様は怠慢なんかじゃありません! 毎日、毎日、扉を――」
「黙れ、小娘! 口を慎め!」
ガルドの一喝に、ティルナは唇を噛んで俯いた。
私はその肩に、そっと手を置く。
「いいのよ、ティルナ。……ありがとう」
民衆は、ミレイユの華やかな祈祷に沸いていた。地味な前任者になど、誰も見向きもしない。
それでいい。
「怠慢の罪により、聖女エルフィーナを封印塔から追放する。異論は認めん!」
ガルドが高らかに宣言した。
私は羽ペンを収め、静かに口を開いた。
「承知しました。では、封印の鍵をお返しします」
決めた。ここで喚くのは、私の流儀じゃない。
「ふん、物分かりのいいことだ。とっとと消えるがいい」
だから、ただ一つだけ。事実を、告げる。
「――ただ一つだけ。扉の“最終補修は三日後”でした。どうか、お忘れなきよう」
「はいはい、三日後ね。どうでもいい話ですわ。さっさとお行きなさい」
誰も、その言葉の意味を聞いていなかった。
(……それでいい。引き継ぎは、正式に済ませました)
──
塔を去る道は、思ったより静かだった。
振り返れば、黎明の封印塔がそびえている。魔と人の境に建つ、灰色の巨塔。
私はもう、あの扉の管理者ではない。
(さて。引き継ぎは、済ませましたけどね)
前世の私なら、退職時に必ず引き継ぎ書を残した。属人化した業務ほど、後任のために丁寧に。
それが社会人の、いや――保守点検エンジニアの矜持だった。
だから今回も、私は正式な手続きに則って『引き継ぎ書』を提出した。ガルドが受け取りのサインをしたことも、確認済みだ。
そこには、こう書いてある。
『崩落期補修手順――三日後に迫る、三百年周期の魔力層総入れ替え。適切な手順を踏まねば、《虚喰いの獣》が漏出する』
三百年に一度、扉は内側から軋み、外殻が崩れ始める。
『崩落期』。
その日を、私はずっと前から把握していた。前世の記憶と、日次の観測データが教えてくれた。異常の予兆は、いつだって数字に出る。
だからこそ、毎日綻びを縫ってきた。この日のために。
私がいなくなれば、崩落期の補修は、誰にもできない。
手順は、私の頭の中と――正規の引き継ぎ書にしか、存在しないのだから。
「読まないでしょうね、あの人たちは」
口の端が、わずかに上がる。
読まないだろう。「飾り」だと切り捨てた扉のために、几帳面な帳簿を読み込む男ではない。
それでいい。私は、やるべきことをやった。
風が、灰銀の髪を撫でていく。きっちり結い上げたそれを、少しだけ緩めた。
――もう、聖女の看板を背負う必要はない。
私は歩き出した。辺境へ。竜人将軍が治めるという、赤鉄砦の方角へ。
復讐? いいえ。
これは、ただの引き継ぎ。
あとは、正規の手続きに従うだけ。
──
「動くな。何者だ」
辺境へ続く街道で、私の行く手を阻んだのは――巨躯の影だった。
人の倍近い身の丈。首筋と腕に走る、赤銅色の鱗。瞳は、熔けた金。
戦場で獣すら怯むという、圧倒的な威圧感。
(これは……竜人族)
噂は聞いていた。辺境『赤鉄砦』を守る将軍。『血染めのヴォルク』と恐れられる、冷酷無比の男。
「私は、エルフィーナ・レーゲンハルト。……元・封印塔の聖女です」
「聖女、だと。……封印塔の聖女が、なぜこんな辺境へ向かう。塔の異変を、貴様は知らんのか」
異変。この男は――知っている。
「知っています。三日後、崩落期が来ます。扉は崩れ始める。適切な補修をしなければ、《虚喰いの獣》が漏出するでしょう」
ヴォルクの表情が、凍りついた。
「……なぜ、それを。誰も、崩落の周期など把握しておらんはずだ。私が幾度、塔に警告を送っても、返るのは『安定している』の一点張りだった」
「私が、把握していたからです。……どうぞ、これを」
私は観測帳を取り出し、彼に差し出した。
ヴォルクの太い指が、ためらいがちに頁をめくった。
「これは……三百年分の、点検記録か」
「魔力減衰の日次データ。補修履歴。綻びは、いつも同じ場所から始まる。数字が、教えてくれるんです」
几帳面な字で埋め尽くされた、膨大な記録。日付。数値。微細な補修の履歴。
彼の手が、止まった。
「……この観測精度」
声が、震えていた。
「三百年、一日も欠かさず、か。……塔を守っていたのは、貴様一人だったのか」
見上げれば――強面の竜人将軍の金の瞳が、不覚にも潤んでいた。
太い指先が、頁をそっと撫でる。まるで、そこに込められた歳月の重みを、確かめるように。
私は少しだけ、目を見開いた。
(この記録の意味を……一目で理解した人が、いるなんて)
塔では、誰一人として。
「……なぜ泣く、と言いたいのだろうな、その目は。……この一頁一頁に、貴様の歳月が込められている。それが、わからん男に見えたか」
「……いいえ」
私は、静かに笑ってみせた。
「私は、もう部外者です。あとは“正規の手続き”に従うだけ。補修手順は、引き継ぎ書に残してきました。担当聖女が、実行すればいい」
ヴォルクは、じっと私を見つめた。
「……その手順を実行できる者は、いるのか」
私は答えなかった。
「……ふふ。さあ、どうでしょうね」
ただ、静かに微笑んだだけだった。
──
三日後。
黎明の封印塔の扉が、軋み始めた。
《ゴォォォ……ッ》
内側から響く、地鳴りのような咆哮。外殻に亀裂が走り、封印の紋様が禍々しく明滅する。
崩落期の、始まりだった。
「祈りなさい、ミレイユ! お前の魔力で、扉を鎮めるのだ!」
ガルドが叫んだ。額に脂汗を浮かべ、宝石の指輪が震えている。
「わ、わかっています! これだけの魔力を注げば……鎮まるに決まっていますわ!」
ミレイユが両手を掲げ、大魔力を注ぎ込んだ。
輝く金髪が舞い、聖装が光の奔流に包まれる。社交界を魅了した、華やかで美しい祈祷の所作。
莫大な魔力が、扉へと放たれた。
――だが。
扉は、静まらない。
《ミシ……ミシミシッ》
むしろ、亀裂は広がっていく。
「な……どうして!? どうして……こんなに力を込めているのに! これだけの魔力を注いでいるのに――どうして扉が鎮まらないの!?」
ミレイユの顔から、余裕が消えた。
必要なのは、魔力量ではない。
「どこが、どう傷んでいるのか」――三百年分の点検データに基づく、精密な補修順序。
それを、この華の聖女は知らない。理解しようともしなかった。
「落ち着け、もっと祈るのだ! お前は華の聖女だろう!」
「ガルド様! 手順は!? 引き継ぎ書があるはずでしょう!?」
「ひ、引き継ぎ書……! ええい、どこだ、あの女の帳面は……!」
ガルドが、慌てて羊皮紙を広げた。
そこには、几帳面な字で、崩落期の補修手順が事細かに記されていた。
だが、その末尾に――一行。
『崩落期補修手順――ただし、本手順は担当聖女の魔力波形に鍵付けされています。第三者は実行不能。担当者の再任が必要です』
ガルドの顔が、みるみる青ざめていく。
「『本手順は担当聖女の魔力波形に鍵付けされています。第三者は実行不能。担当者の再任が必要』……魔力波形に、鍵付け……!? そんな、馬鹿な……!」
「鍵付け……? つまり……あの女でなければ、誰にも……?」
ミレイユの声が、掠れた。
塔の隅で、見習い聖女のティルナが、ぽつりと呟いた。
「やっぱり……エルフィーナ様がいないと、駄目なんだ」
「だ、黙れ! 今さら何を――」
「エルフィーナ様は、毎日、この扉を守ってた。数字を読んで、綻びを縫って……たった一人で、世界を支えてたんです。それを、あなたたちは――『役立たず』って!」
民衆が、ざわめき始める。
地味な前任者。帳簿ばかり眺めていた、あの女。
――彼女こそが。
「戻せ……戻すのだ! エルフィーナを呼び戻せ! 早く!」
ガルドが泥にまみれて叫ぶ。だが、扉の崩落は止まらない。
《ゴオオオオオッ――!》
亀裂の奥から、闇より昏い何かが、覗こうとしていた。
──
「エルフィーナ! エルフィーナ・レーゲンハルト!」
泥にまみれた大司教ガルドが、辺境へ続く街道で、私に追いすがってきた。
金糸の祭服は汚れ、宝石の指輪も泥に沈んでいる。あの勝ち誇った顔は、もうどこにもない。
「戻ってくれ! 頼む! 扉が……扉が崩れる! お前でなければ、補修ができんのだ!」
私は、足を止めた。
だが、振り返らない。
「……大司教様。三日前、あなたはこう仰いましたね。――『貴様の力など、もう不要だ』と」
「そ、それは……! あれは言葉のあやだ! 本気ではなかったのだ!」
「『祈りもせず帳簿ばかり眺める女に、聖女の資格などない』とも仰いました」
私は羽ペンを、そっと胸元に収めた。
三百年分の記録を継いできた、私の武器を。
「頼む、この通りだ! 何でもする! 金なら、地位なら、いくらでも用意する!」
「“もう不要”だと、あなたが仰ったのですよ」
背後で、ガルドが息を呑む気配がした。
「役立たずの帳簿係は――引き継ぎを済ませて、去ります」
「待て……待ってくれ、エルフィーナ!」
そして、私は最後にひとつだけ、振り返らずに言った。
「後始末は、そちらでどうぞ」
背後の絶望に、一切の情けをかけず。
私は歩き出した。
(補修手順は、正規の引き継ぎ書に残しました。魔力鍵付けの仕様も、明記した。……前世で嫌というほど見てきた『属人化リスク』を、逆手に取っただけ)
私を追放した瞬間、彼らは世界の安全装置ごと、追放したのだ。
それを、事前に告げた。書面にも残した。
それでも読まなかったのは――彼らの選択だ。
街道の先で、赤銅色の鱗の巨躯が、私を待っていた。
ヴォルクだ。
「……行くのか。塔を救わずに」
私は彼を見上げた。
「救います。ただし――塔ではなく、辺境の民を」
「……どういうことだ」
「崩れた塔の魔力は、いずれ辺境にまで流れる。放っておけば、あなたの守る赤鉄砦も危うい。だから、辺境に新たな封印を築きます。今度は、私の意志で」
ヴォルクの金の瞳が、わずかに揺れた。
「義務ではなく、か」
「ええ。義務ではなく」
私は、彼に手を差し出した。
「ヴォルク将軍。私と――正規の契約を結んでいただけますか。正当な待遇と、敬意のもとで」
彼は、ほんの一瞬、面食らったように瞬きをして。
それから、大きな手で、私の手を包んだ。とても、とても丁寧に。
「……契約書は、隅から隅まで読ませてもらう」
「ふふ。……律儀な方ですね。気に入りました」
遠く、黎明の封印塔が崩れゆく音が、地を揺らしていた。
だが私は、もう振り返らなかった。
──
辺境『赤鉄砦』に、新たな封印が築かれた。
私の魔力波形に鍵付けした、正規の術式。今度は正当な契約書と、ヴォルクの署名のもとで。
流れ出た《虚喰いの獣》の魔力は、辺境の地で確かに鎮められた。黎明の塔は崩れたが――世界は、辛うじて滅びを免れた。
その夜。
砦の櫓の上で、ヴォルクが隣に立った。赤銅の鱗が、月明かりに鈍く光っている。
「……ひとつ、聞いてもいいか」
「どうぞ」
私は観測帳を閉じ、彼を見上げた。
「貴様を追放した王国だ。貴様を『役立たず』と嘲り、泥のように扱った連中だ。――なぜ、世界を見捨てなかった?」
無骨な声。だが、その奥には、確かな敬意があった。
私は少しだけ、空を仰いだ。
前世で、私は保守点検エンジニアだった。誰にも褒められず、日の当たらない現場で、ただ淡々と設備を守り続けた。
異常が起きなければ、誰も気づかない。それが、私の仕事だった。
「……仕事に責任を持つのが、私の“流儀”ですので」
静かに、答える。
「流儀、か」
「見捨てるも見捨てないも、扉の向こうにいるのは、罪もない民です。ガルドやミレイユの報いのためだけに、彼らを巻き込むのは、私の美学に反します」
「……美学、か」
ヴォルクが、ふっと目を細めた。強面が、わずかに和らぐ。
「だが、覚悟しておけ。王国はいずれ、頭を下げて貴様を迎えに来る。『客員聖女』として、な」
「あら」
私は、羽ペンをくるりと回した。
「そのときは、ただし――きちんと契約書を交わしてから、ですね」
「……ふっ。くくっ、貴様という女は」
ヴォルクが、低く笑った。獣のような、けれど不思議と温かい笑い声。
そのとき、砦の階段を駆け上がる、軽い足音がした。
「エルフィーナ様ーっ! 私、来ました! エルフィーナ様を追ってきたんです!」
栗色のお下げを揺らして現れたのは、ティルナだった。息を切らし、頬を紅潮させて。
「ティルナ……? どうして、こんな辺境まで」
「お願いします、私を弟子にしてください! この技術を、次の代へ継ぎたいんです!」
私は、少し驚いて――それから、微笑んだ。
「引き継ぎ、ですか」
「はい!」
「……いいでしょう。ただし、まずは観測帳の付け方から。地道ですよ?」
「望むところです!」
遠くの空、崩れた黎明の塔の跡地には、すでに新たな封印塔の建設が始まっているという。
私を蔑ろにした王国が、頭を下げて私を迎える日は――そう、遠くないのかもしれない。
だが、それはまた別の話。
今はただ、この静かな辺境で。
羽ペンと観測帳を手に、私は明日の点検の予定を、几帳面に書き記した。
――異常の予兆は、いつだって数字に出る。
それを見逃さないのが、私の流儀なのだから。




