第1話
理科室というのは、なんでこうも独特の匂いがするんだろう。
薬品と、古い本と、ほんの少しの埃っぽさ。
別に嫌いじゃないけど、好きかと言われると微妙だ。
そんなことをぼんやり考えながら、私は椅子に背を預けていた。
今日は、理科部の離別式。
卒業する三年生に、メッセージカードを渡すだけの、毎年恒例のささやかな恒例行事だ。
「先生、まだ来ないね」
誰かがそう呟いた。
それに対して、まぁいつものことだ、とでも言いたげに、部員たちは適当に笑っている。
……ほんとにゆるい部活だ。
私はちらりと視線を動かした。
視線の先には、三年生の先輩たち――その中でも一際目立つ人。
熊川先輩。
メガネに、ちょっと跳ねた天然パーマ。
自覚ないけど普通にイケメンで、真面目で、ちょっと世話焼きで。
……まあ、要するに。
私が、好きな人だ。
「ねぇ」
不意に、横から声をかけられた。
「なんでしょう?」
「今日で最後でしょ? 熊川先輩との部活」
阿道先輩だ。
この部活では珍しい女子の先輩で、こういう話題を振るのが好きな人。
「まあ、そうですね……ははは」
苦笑いで誤魔化す。
するとすかさず、横から茶々が入る。
「おい、そろそろ告白した方がいいんじゃないのか?」
肥后くんだ。
同級生で、無駄にストレートなことを言ってくるやつ。イケメンなのが腹が立つ。
「うぅ……そんなのわかってるよ……そろそろ黙っててよ」
「まあ、兄は恋愛にあまり興味は無いので、無理はしない方がいいですけど……否定はしませんね」
冷静に補足してくるのは、熊川優太くん。
つまり、熊川先輩の弟だ。
「とりあえず黙ってて」
私は顔を伏せたまま、ぼそっと言った。
「だとしても最後だし、連絡先くらい交換しとけばいいんじゃ……」
「あぅ……だから黙って」
「女って難しい……」
「そんなものだよ。そっと見守ろう」
「そうですね……今、兄の方に夢中なのでそっとしておきましょう」
……もうやだこの人たち。
ため息をつきながら、私は視線を窓の外に向けた。
夕方に差し掛かる光が、少しだけ教室を橙色に染めている。
(今日で最後か……)
ぽつりと、心の中で呟く。
(先輩たちがいなくなるの、やっぱり寂しいな……)
告白とか、そんな勇気はないけど。
せめて、もう少し――
そう思った、そのときだった。
ガラリ。
理科室の扉が、音を立てて開いた。
「先生来た?」
誰かがそう言って、全員の視線が一斉に扉へ向く。
――そして。
その場の空気が、凍りついた。
そこにいたのは、先生じゃなかった。
……そもそも。
人間じゃ、なかった。
背は、明らかに二メートルを超えている。
青白い肌に、痩せ細った身体。
異様に長い指と、爪。
人の形はしている。けど、それだけだ。
「……え」
誰かの、かすれた声。
私も、動けなかった。
理解が追いつかない。
脳が現実を拒否しているみたいに、思考が止まる。
――その“何か”は。
ゆっくりと、こちらへ歩いてきた。
そして。
一番近くにいた私に、手を伸ばした。
「っ……!」
反応できない。
身体が、言うことを聞かない。
そのとき。
「危ない!」
バシッ、と音がして。
その手は、横から弾かれた。
「大丈夫か!?優奈!」
熊川先輩の声。
……ああ。
やっぱり、この人は優しいな。
そんなことを思ったのも束の間。
弾かれた“それ”は、ゆっくりと顔を向けた。
そして。
標的を――熊川先輩へと変えた。
「……っ」
先輩の動きが止まる。
目が、合ったんだ。
たぶん、私と同じ。
恐怖で、身体が動かない。
“それ”は、再び手を伸ばした。
長い爪が、光を反射する。
――このままじゃ。
先輩が、死ぬ。
「――――っ!!」
その瞬間、思考が弾けた。
身体が勝手に動いた。
気づいたときには、私は――
先輩の前に飛び出していた。
そして。
胸に、鋭い痛みが走る。
「……え」
遅れて理解する。
視界が揺れる。
……刺さってる。
あの爪が、私の胸に。
「優奈!?」
「月田!?」
「月田先輩!?」
「優奈ちゃん!?」
声が、遠い。
誰かが駆け寄ってくるのが見える。
でも、身体の感覚がどんどん消えていく。
(ああ……そっか)
ぼんやりと、思う。
(私……死ぬんだ)
痛みも、もうよくわからない。
視界が暗くなっていく。
――そのとき。
ふと。
白くて細い足が、見えた。
(……?)
私は、視線を上げる。
そこは、真っ暗なはずなのに。
どこか、ぼんやりと光があって。
本棚が、ずらりと並んでいた。
横を見ると、テーブルと椅子。
現実じゃない。
でも、不思議と怖くはなかった。
そして。
目の前に立っていたのは――
長い、淡い髪の少女。
薄紫にも、桃色にも見える髪。
空みたいに透き通った瞳。
……綺麗すぎて、現実感がない。
女の私でも、思わず見惚れるくらいの美人だった。
その少女が、口を開く。
「助けたい?」
静かな声。
でも、とても素敵な声だった。
「――あなたの、大切な人を」
(……誰なの?)
そう思うより先に。
答えは、もう決まっていた。
助けたい。
それだけだった。
声を出そうとした瞬間。
「あぁ、無理に喋らなくて大丈夫よ」
少女は、軽く笑った。
「大体の言いたいことは分かるから」
……なんなの、この人。
「ここは、あなたと私の精神世界」
さらりと言う。
「私は……そうね。寄生虫みたいなものよ」
(は??)
意味がわからない。
「説明してる時間はないわ。単刀直入にお願いするわね」
(お願い?)
「ちょっとあなたの身体を使って、私の身体を再生させてほしいの」
(はい?)
思考が追いつかない。
(それをすると……私は?)
「あなたの身体は消えるわね。でも、その代わり」
少女の瞳が、わずかに細まる。
「あの化け物くらいなら、なんとかしてあげる。私にはそのための力があるのだから」
……どうせ。
このままでも、死ぬ。
なら――
(先輩たちを助けて)
それが、一番だった。
「ふむ……交渉成立……と言いたいけれどなにか叶えて欲しいことはあるかしら?私にはそれぐらいのコネはあるわ」
願いか……あっ
(それなら……私のことは、大切な人以外の記憶から消してほしい)
そして。
ほんの少し、迷ってから。
(……それから、私の意志を、少しでも残して欲しいかな)
少女は、一瞬だけ驚いた顔をして。
すぐに、楽しそうに笑った。
「なかなか強欲ね」
でも。
「いいわよ。全部、叶えてあげる」
その言葉で。
すべてが決まった。
「これからは、少し苦労するかもしれないけど」
少女は、優しく言う。
「もし何かあれば、いつでも変わるわ」
そして。
「――それでは、またいつか会いましょう」
視界が、光に包まれる。
意識が、引き戻されていく。
終わりと。
はじまりの境界で。
私は、ただ――
その言葉を、ぼんやりと聞いていた。




