第2話:『腐敗の血脈と、帳簿に潜む毒蛇』
父の執務室を辞したアルベルトは、薄暗い石造りの回廊を一人歩いていた。
革靴が冷たい石畳を叩く音が、静寂に包まれた城内に規則正しく響き渡る。十五歳の肉体は、突如として流れ込んできた膨大な前世の記憶と、極度の緊張によって微かな熱を帯びていた。しかし、彼の思考はかつてないほどに澄み渡り、氷のように冷え切っていた。
筆頭公爵家令嬢、エレオノーラ・フォン・ヴァイセンブルクとの婚約。
母を毒殺した宰相派の猛攻を一身に受けるための「防波堤」としての役割。
与えられたのは、数年後の破滅が約束された死の宣告に他ならない。だが、前世で数多の腐敗した企業を解体し、あるいは再生させてきたアルベルトの脳髄は、すでにこの絶望的な状況を一つの「巨大な不良債権案件」として処理し始めていた。
勝算はある。盤面をひっくり返すための強烈な劇薬が、このローゼンベルク家には眠っているはずだ。
アルベルトの足が向かったのは、自室ではなく、城の地下にある文書管理室だった。
「アルベルト若様……? このような埃っぽい場所へ、いかがなさいましたか」
カビと古い羊皮紙の匂いが充満する薄暗い室内で、白髪の老人が驚いたように立ち上がった。ローゼンベルク家に三代にわたって仕える老財務官、クラウスである。長年の酷使で背は曲がり、分厚い眼鏡の奥の瞳はすっかり濁りきっている。父ヘルマンと同様、彼もまた度重なる借金のやり繰りで完全に疲弊していた。
「クラウス。過去五年分の、本家と分家を繋ぐすべての取引帳簿を出してくれ。それと、隣接する三つの領地との関税記録、および傭兵団への委託費の明細もだ」
「ご、五年分、ですか? しかし若様、それらは次期当主の教育というにはあまりに膨大で、かつ退屈な数字の羅列に過ぎませぬ。それに、当家の財政状況はすでに……」
「破綻していることは分かっている。言い訳は求めていない、出せ」
一切の感情を排した、ひどく冷たく、有無を言わさぬ声だった。
クラウスは思わず息を呑んだ。目の前にいるのは、昨日まで剣の稽古から逃げ回っていた、線の細い十五歳の少年のはずだ。だが、その漆黒の瞳の奥には、長年修羅場を潜り抜けてきた冷酷な裁定者のような光が宿っている。老財務官は抗うこともできず、震える手で棚から分厚い革張りの帳簿を次々と机の上に積み上げた。
アルベルトは上着を脱ぎ捨て、椅子に座ることもなく帳簿を開いた。
パラ、パラパラ、と。
乾燥した羊皮紙を捲る乾いた音だけが、地下室に響き続ける。アルベルトの視線は、紙面に並ぶ独特の丸みを帯びた異世界の文字と数字の上を、異常な速度で滑っていく。現代日本の複式簿記の概念を持たないこの世界の単式帳簿など、彼にとっては子供の小遣い帳よりも単純だった。
だが、単純だからこそ「嘘」は一目瞭然となる。
「……なるほど。見事なまでに食い物にされているな」
一時間後。埃にまみれた十冊目の帳簿を閉じたアルベルトは、酷薄な笑みを浮かべて呟いた。
「若様……? 食い物にされているとは、一体……」
「クラウス、お前は忠義に厚い男だが、いささか目が悪すぎる。この三年間の帳簿、特に母上が亡くなられた後の支出項目の不自然さに気づかなかったのか?」
アルベルトは一冊の帳簿を開き、インクの染みたある項目を細い指で叩いた。
「ここだ。魔獣対策として国境沿いに配備している傭兵団への兵糧と、武具の修繕費。三年前から、相場の約一・五倍に跳ね上がっている」
「そ、それは……近年の天候不順による小麦の価格高騰と、鉄鉱石の質の低下によるもので……」
「馬鹿を言うな。同じ時期の関税記録を見たが、隣国からの鉄鉱石の輸入価格に変動はない。小麦に至っては二年前は豊作だ。相場は上がるどころか下がっている」
「なっ……」
「さらに滑稽なのは、この物資の調達先だ」
アルベルトは別の帳簿を引き寄せ、複数の取引記録を指先で繋ぐように示した。
「兵糧の調達先は『赤獅子商会』、武具の調達先は『黒鉄ギルド』。一見すると別々の組織に見えるが、決済の経由地がどちらも同じ場所になっている。我がローゼンベルク辺境伯家の分家……叔父であるギュンター男爵の領地だ」
クラウスの顔から、さぁっと血の気が引いていく。
「まさか……ギュンター様が、本家の資金を横領していると……!?」
「横領という可愛い言葉で済む話ではない」
アルベルトの瞳に、刃のような殺気が宿った。
「相場との差額分、毎月およそ金貨三百枚。これが三年間、叔父の懐に入り続けている。だが、一介の男爵がこれほど巨額の資金を一人で隠蔽し、使い切れるわけがない。背後に巨大な後ろ盾……資金の『上納先』があるはずだ」
「上納先……」
「母上を暗殺し、我が家を借金漬けにして崩壊させようとしている連中だよ」
クラウスは呆然と立ち尽くした。
つまり、ギュンター男爵は母を殺した宰相派と密かに内通し、本家の資金を意図的に枯渇させるための「内部の毒蛇」として機能していたのだ。本家の財政が破綻すれば、現当主であるヘルマンは失脚し、宰相派の息がかかったギュンターが辺境伯の座を乗っ取ることになる。
「おのれ……ギュンター様……! よくも本家を、大旦那様を裏切り……っ! すぐに憲兵を呼び、大旦那様に報告を……!」
「待て、愚か者」
激昂して飛び出そうとした老財務官を、アルベルトの冷え切った声が縫い留めた。
「法務卿は宰相派の筆頭だ。正攻法で訴え出たところで、証拠は隠滅され、逆にこちらが誣告の罪で反逆者に仕立て上げられるのがオチだ。父上に報告しても、今のあの気力では政治的な対処などできまい」
「で、ではどうすれば……! このまま分家に血を吸われ続け、公爵令嬢との理不尽な婚約で家が潰れるのを待つしかないというのですか!」
「私がいつ、諦めると言った?」
アルベルトは立ち上がり、机の上に散乱する帳簿を冷たい目で見下ろした。
彼の唇の端が、歪に、そしてひどく妖艶に吊り上がる。
「敵の弱み(裏帳簿)を手に入れたなら、それを裁判官に見せるのは三流のやることだ。一流は、その弱みを使って相手の首輪を作り、骨の髄まで利用し尽くす。……クラウス、私に領地の特別監査権限を譲渡する書類を作れ。父上の署名は私が偽造する」
「な、何をなさるおつもりですか、若様……」
「叔父上には、これまで吸い上げた血を吐き出してもらう。それも、ただ吐き出させるだけではない。宰相派の喉元に食らいつくための『狂犬』として、美しく調教し直してやる」
薄暗い地下室で、少年は誰よりも深く、黒い野心を孕んだ笑い声を響かせた。
公爵令嬢という猛毒を迎え入れる前に、まずは足元の毒蛇の牙をへし折り、己の杖に変える。現代の企業再建請負人による、血も涙もない異世界制圧の第一歩が、静かに踏み出されようとしていた。




