第1話:『豪奢な寝室の重圧と、美しき毒薬の報せ』
頭蓋骨の内側を、熱く焼け付くような鈍痛が支配していた。
アルベルト・フォン・ローゼンベルクは、重くのしかかる羽毛布団の中でゆっくりと目を開いた。視界に飛び込んできたのは、見慣れたはずの、天蓋から垂れ下がる豪奢な深紅の布地だ。しかし、今の彼にとってそれは、どこかひどく現実離れした演劇の小道具のように感じられた。
現代日本での記憶。巨大企業の不正を暴き、帳簿の底に隠された嘘を炙り出し、無能な経営陣を冷徹に切り捨ててきた「企業再建の専門家(リストラ・請負人)」としての生。血の通わない数字と法律だけを信じ、最後は部下の裏切りによって命を落とした三十数年間の記憶が、今朝、唐突に濁流となって十五歳の少年の脳髄に流れ込み、そして完全に融合を果たしていた。
アルベルトはゆっくりと上体を起こした。シーツに触れる手のひらには、最高級の絹がもたらす冷たく滑らかな感触がある。しかし、深く息を吸い込むと、肺を満たすのはカビと古い石材、そして微かな獣脂の匂いだった。何世代にもわたって辺境の防衛を担ってきたローゼンベルク家の居城は、その歴史の重さと同じくらい、隠しきれない老朽化の匂いを漂わせている。
扉をノックする音すらなく、二人の専属メイドが足音を殺して寝室に入ってきた。彼女たちは一切の感情を顔に出さず、ただ機械的な正確さでアルベルトの寝巻きを剥ぎ取り、朝の身支度を始める。
温かい湯で絞られた布が顔を拭い、首筋を清める。アルベルトは黙ってその奉仕を受け入れながら、自らの肉体に纏わされる衣服の重みを感じ取っていた。希少な魔獣の糸を織り込んだ漆黒の生地に、銀糸で施された我が家の家紋。防刃効果すら持つというその重衣は、物理的な重量以上に、没落の危機に瀕している辺境伯家の見栄と意地の重さそのものだった。
メイドの一人が、彼の首元にクラヴァットを巻きつけながら、ほんの一瞬だけ手元の動きを止めた。アルベルトは鏡越しに彼女の視線の先を追う。そこには、部屋の隅に敷かれたペルシャ絨毯の、微かに擦り切れた縁があった。
こんな細部にまで、財政難という病魔は確実に進行している。かつては大陸屈指の武門と謳われた我が家も、今や中央の派閥争いに敗れ、莫大な負債と隣国の脅威に挟まれて窒息寸前だ。資産は枯渇し、負債は膨張し、経営陣たる父は無気力。通常の企業であれば、即座に倒産処理に入るべき致命的な状況である。
身支度を終え、アルベルトは静かに寝室を出た。
薄暗い石造りの廊下には、歴代当主の肖像画が等間隔に飾られている。隙間風が容赦なく吹き抜け、燭台の炎が頼りなく揺れていた。その廊下の中腹で、アルベルトはふと足を止めた。
壁に掛けられた一枚の肖像画。そこに描かれているのは、三年前に他界した母、イザベラの姿だった。
公式には「流行り病」とされている。だが、アルベルトも、父も、家臣たちも皆知っていた。王国の実権を握る宰相派の横暴にたった一人で外交戦を挑み、彼らの不興を買った母が、ある夜の晩餐の後に突然血を吐いて倒れたことを。証拠は隠滅され、王家お抱えの医師すらも口を噤んだ。あの夜、母という政治的な頭脳を失った瞬間から、純粋な武人であった父の心は完全に壊れ、ローゼンベルク家は転がり落ちるように没落への道を歩み始めたのだ。
アルベルトは母の肖像画を冷徹な目で見つめ返し、ただ一言も発することなく、まっすぐに父の執務室へと歩みを進めた。今朝、メイドを通じて「身支度が整い次第、直ちに出頭せよ」という異例の呼び出しを受けていた。
重厚なマホガニーの扉の前に立つ。護衛の騎士が黙礼し、両手で重い扉を押し開けた。
執務室の空気は、煙草の煙とインクの匂いでひどく澱んでいた。窓は厚いカーテンで閉ざされ、朝であるにもかかわらず部屋の中には陰鬱な影が落ちている。
部屋の奥、山のように積まれた未決済の書類の向こう側で、現ローゼンベルク辺境伯であるヘルマンが深く椅子に沈み込んでいた。かつては戦場で勇名を馳せた大柄な肉体は、愛する妻を謀略で失った後悔と、終わりの見えない資金繰りの心労によって見る影もなく萎縮している。彼の指先には安物の葉巻が挟まれており、紫色の煙が空虚に立ち昇っていた。
アルベルトは無言で数歩進み、父の机の前に立った。貴族としての完璧な礼の姿勢をとる。
ヘルマンは充血した目をゆっくりと上げ、自身の長男を見据えた。その瞳には、父親としての愛情よりも、追い詰められた為政者の苦悩と、何かを諦めきった暗い光が宿っていた。
「アルベルト」
しわがれた、ひどく掠れた声だった。
「お前も十五歳になった。辺境伯家の次期当主として、相応の義務を果たす時が来た」
アルベルトは表情を微塵も崩さず、次の言葉を待った。経営が破綻しかけた組織のトップが、このような重苦しい前置きをする時、出てくるのは決まって最悪の事態の通告であると、前世の経験が告げていた。
ヘルマンは一度葉巻を灰皿に押し付け、深く息を吐き出した。
「お前の婚約が決まった。相手は……筆頭公爵家令嬢、エレオノーラ・フォン・ヴァイセンブルク様だ」
その瞬間、執務室の空気が氷点下にまで凍りついたように錯覚した。
ヴァイセンブルク公爵家。王家の血を引き、現在の王国において、母を暗殺した宰相派と国を二分する巨大派閥の頂点に君臨する怪物。その令嬢であるエレオノーラは、圧倒的な美貌と冷酷な政治的野心を持つことで知られ、次期王妃の座すら狙える立場にある。
格が違いすぎる。
借金まみれの没落寸前の辺境伯令息に、筆頭公爵家から婚約の話が持ち込まれるなど、政治的な裏がなければ絶対にあり得ない。
「父上」
アルベルトは静かに口を開いた。声のトーンは完璧に制御され、少しの動揺も滲ませていなかった。
「名誉なことですが、あまりにも不釣り合いな縁談です。公爵家は、我がローゼンベルク家に何を求めているのでしょうか」
ヘルマンの顔が苦痛に歪んだ。彼は視線をアルベルトから逸らし、机の上の書類に目を落とした。
「……防波堤だ」
血を吐くような、絞り出すような声だった。
「宰相ヴィルヘルム・フォン・ランゲの派閥が、我が領地に隣接する関税特区の法案を推し進めようとしている。公爵家はそれに徹底抗戦する構えだ。しかし、公爵家自身は表立って血を流したくない。だからこそ、最前線にある我が家を公爵派に引き入れ、宰相派の攻撃をすべて受け止めさせるための『盾』にするつもりなのだ」
なるほど、とアルベルトは内心で呟いた。
エレオノーラとの婚約は、栄転でも救済でもない。ローゼンベルク家を公爵家の使い捨ての駒として最前線に縛り付けるための、美しい毒薬だ。母を殺した宰相派の猛攻を受ければ、すでに財政が破綻しているこの辺境伯家は、数年も持たずに物理的にも社会的にも消滅するだろう。そして公爵家は、我が家の死体を踏み台にして宰相を非難する大義名分を得る。完璧なトカゲの尻尾切りだ。
「断ることはできないのですか」
アルベルトの淡々とした問いに、ヘルマンは自嘲気味に笑った。
「断れば、今月末の融資が凍結される。我が軍の維持費すら払えず、領地は崩壊する。我々には、この毒杯を飲み干す以外に道は残されていないのだ。……イザベラがいてくれれば、また違った道もあったのだろうが。すまない、アルベルト。お前の人生を、借金の担保として差し出す無能な父を許してくれ」
部屋に沈黙が落ちた。ヘルマンは両手で顔を覆い、深い絶望の中に沈んでいた。
しかし、アルベルトの心臓は、恐怖や悲哀ではなく、全く別の感情で奇妙な高鳴りを始めていた。
死に体となった企業。母の命を奪った巨大な敵対的派閥。そして、自らを使い捨ての駒として扱う冷酷な筆頭公爵家令嬢。
前世の冷徹な血が、少年の身体の中で沸騰するのを感じた。盤面は最悪だ。だが、手札が完全にゼロというわけではない。相手がこちらを「ただの無力な駒」だと思い込んでいること自体が、最大の武器になる。
「顔を上げてください、父上」
アルベルトの声は、先ほどまでの少年のそれとは明らかに異なっていた。それは、何百人もの人間を冷酷に解雇し、巨万の富を動かしてきた男の、静かで圧倒的な自信に満ちた声だった。
ヘルマンが驚いたように顔を上げる。その視線の先で、十五歳の息子は、不敵な、そして悪魔のように美しい笑みを浮かべていた。
「喜んでお受けいたします。ヴァイセンブルクの公爵令嬢。私には過ぎた手札です。あの誇り高く冷酷なご令嬢を、私がどのようにこの手の中で転がし、飼い慣らすか。どうか、特等席でご覧になっていてください」
窓の隙間から差し込んだ一筋の冷たい朝陽が、アルベルトの横顔を不気味なほど鮮明に照らし出していた。
それは、後に王国全土を恐怖と陰謀で支配することになる怪物が、初めて産声を上げた瞬間だった。




