無
少年は、考えなくなった。
それは一見、とても幸福なことのように見えた。
◆
市場の人々は言った。
「最近、あの子おとなしくなったよね」
「前はボーッとしてたけど、今はニコニコしてる」
怒らない。
悩まない。
立ち止まらない。
言われたことを、素直にこなす。
失敗しても、落ち込まない。
褒められても、舞い上がらない。
――感情の波が、ない。
少年自身も、それを「楽だ」と感じていた。
「考えなくていいって、こんなに楽なんだ」
胸の奥が、凪いでいる。
怖くもない。
苦しくもない。
ただ――
何も残らない。
◆
数日後。
ルミナは、噂を聞いて市場へ戻った。
「最近、いい子がいる」
「手がかからない」
「何を言っても、はいって言う」
嫌な予感が、確信に変わる。
噴水のそば。
少年は、同じ場所に立っていた。
同じ姿勢。
同じ表情。
「……君」
声をかける。
少年は、ゆっくり振り向いた。
笑顔。
だが、視線が合わない。
「元気?」
「はい」
即答。
間が、ない。
「……楽しい?」
「はい」
「なにが?」
数秒、沈黙。
少年は、少し困ったように首を傾げた。
「……わかりません」
ルミナの喉が、鳴った。
能力を使わなくても、
分かってしまう。
“自分で考える回路”が、
極端に弱っている。
◆
「ねえ」
ルミナは、震える声で言う。
「前はさ、ここに座ってたよね」
「……そう、ですか?」
「どうして?」
少年は、少し考え――
考えようとして、やめた。
「座る必要が、なかったからです」
それは、正しい。
正しすぎる。
「……じゃあ」
ルミナは、最後の希望をかける。
「今、ここに立ってる理由は?」
少年は、微笑んだ。
完璧な、空白の笑顔で。
「……誰かに、立ってていいって言われたから」
胸の奥が、冷える。
それは――
ルミナの言葉だ。
◆
その夜。
無色の少女は、何も言わずに隣に立っていた。
輪郭は、さらに薄い。
「……見た?」
少女が聞く。
「……見た」
ルミナは、唇を噛む。
「私が、やった」
「うん」
否定は、ない。
「でもね」
少女は、静かに言う。
「あなたは、私を完全には壊してない」
ルミナは顔を上げる。
「……どういう意味?」
少女は、少しだけ指先を動かした。
かすかな色が、揺れる。
「あなたは、“楽にしていい”って言っただけ」
ルミナの胸が、締めつけられる。
「でも、私は」
少女は、自分の胸に手を当てる。
「“楽にならなきゃいけない”世界に、いた」
違いは、わずか。
でも、致命的。
◆
「……じゃあ」
ルミナは、絞り出すように言う。
「私は、何をすればよかった?」
少女は、すぐには答えなかった。
そして、こう言った。
「間違えてもいいって、言えばよかった」
その言葉が、
刃より深く刺さる。
救いは、
完成された肯定じゃない。
迷い続ける権利だ。
少年は、まだ生きている。
まだ、存在している。
でも。
“自分で立つ理由”だけを、
失ってしまった。
夜風が吹く。
無色の少女の輪郭が、
ほんの一瞬だけ、揺れた。
救いは、まだ途中だ。
取り返しは――
つかないかもしれない。




