触れなければ壊れない
それからルミナは、能力を使わなくなった。
見ようとしなければ、
感じなければ、
世界は驚くほど穏やかだった。
街はいつも通りに動き、
人々は笑い、
困っている誰かがいても、
「それは自分の問題ではない」と割り切れた。
……割り切れた、はずだった。
「なあ、最近さ」
カイルが荷物をまとめながら言う。
「お前、ぼーっとしてる時間増えたよな」
「そう?」
「前は、もっと周り見てた」
胸が、きゅっと痛んだ。
見ている。
見えてしまう。
ただ――
触れないだけだ。
◆
昼過ぎ、路地裏で言い争う声がした。
子どもと、大人。
聞き覚えのある、空気。
ルミナは足を止め、
無意識に“感情の層”へ意識を向けかけて――
慌てて、遮断した。
「……やめ」
自分に言い聞かせる。
見たら、感じる。
感じたら、手を伸ばしたくなる。
手を伸ばせば――壊れる。
「関わらない」
それが、
今の自分にできる最大の優しさ。
……そう思いたかった。
◆
夜。
眠れずに外へ出ると、
無色の少女が、石塔のそばに立っていた。
前より、さらに薄い。
風に溶けそうな輪郭。
「……来ないと思った」
少女が言う。
ルミナは、息を呑む。
「……ごめん」
声が震えた。
「来なかったんじゃない。
来られなかった」
「知ってる」
少女は、淡々としていた。
責める気配はない。
それが、逆に痛い。
「ねえ」
少女は続ける。
「あなた、優しいね」
その言葉に、
ルミナは顔を歪めた。
「違う」
即答だった。
「怖いだけ。
壊したくないだけ」
少女は、しばらく黙っていた。
そして、静かに言う。
「それでも」
視線が合う。
「あなたは、私を“見ないふり”はしてない」
その瞬間、
ルミナの胸が、締めつけられた。
見ないふりをしないこと。
それ自体が、苦しさを伴う。
「……でも」
ルミナは俯く。
「触れなければ、
少なくとも、壊れない」
少女は、首を横に振った。
「違うよ」
声は、かすれていた。
「触れなくても、
私は、消えていく」
はっきりと告げられる、現実。
能力を使わなくても、
何もしなくても。
世界は、彼女を削り続ける。
◆
「……ねえ」
ルミナは、意を決して一歩近づいた。
触れない距離で、止まる。
「それでもさ」
言葉を選びながら。
「壊れるかもしれないって分かってて、
手を伸ばすのって――
正しいと思う?」
少女は、少し考えてから答えた。
「正しいかどうかは、分からない」
でも。
「誰かが、怖がってくれるだけで、
私は、少しだけ“ここにいていい”って思える」
その言葉が、
刃のように胸に刺さる。
何もしないことは、
安全でも、無害でもない。
◆
夜が明ける前。
少女は、いつの間にか消えていた。
ルミナは、その場に立ち尽くす。
能力を使えば、壊すかもしれない。
使わなければ、失う。
どちらを選んでも、
後悔は避けられない。
「……だったら」
小さく、呟く。
「私は、怖いまま進む」
それは、決意とは呼べない。
震えたままの、選択だった。
でも。
何もしないという逃げ道は、
この夜で閉ざされた。




