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ベッドが空いたと思ってしまう夜勤ナースへ

作者: ひろボ

  一床空いた


 死亡確認が終わって、医師が無言でカルテに時刻を書き込む。


 病室の時計は、さっきから止まったままだ。


 聞こえるのは、酸素の流れていない加湿瓶の、かすかなカラカラという音と、心電図モニターが切られたあとの静けさだけ。


「○○さん、ご臨終です。時刻は二十二時四十八分」


 医師の声が淡々と響いて、それきり部屋の空気が一段階、重くなる。


 私はベッドサイドの家族の肩にそっと手を置いた。


「……今まで、本当にお疲れさまでした」


 奥さんらしき人が、しゃくりあげながら何度も頭を下げる。


「ありがとうございました……ありがとうございました……」


 私は「いえ」と首を振りながら、心の片隅で思っていた。


 ――これで、一床空いたな。


 救急の待機が二人。紹介の予定入院が三人。明日のオペ患者はICUを経由してこっちに上がってくる予定。


 師長はきっと、明日の朝イチで「どこに入れるか」を考える。そのとき、このベッドは真っ先に候補になる。


 頭の中でベッドコントロールの表が動いていく。

 患者の名前の横に小さく書いた「歩行可」「全介助」「家族あり」「一人暮らし」。


 一番上に、さっきまでここに寝ていた人の名前があって、今それがすっと消えた。


 残ったのは「空床 一」。


 胸の中で、かすかに罪悪感が泡立つ。


 でも、ここで泣いている家族の前では、その泡を見せるわけにはいかない。


 私は涙をこらえるのではなく、表情を崩さないように顔の筋肉だけを意識しながら、家族の話にうなずき続けた。


 ご遺体を霊安室に送り出したあと、ナースステーションに戻る。


「さっきの方、初回入院から二ヶ月でしたっけ」


 三年目の西原が、パソコンから顔を上げた。


「うん。心不全の悪化で何度か入ったり出たりしてて、今回は戻ってこられなかった」


「……家族さん、最後までしっかりしてましたね」


「慣れてるのかもしれないね。外来の頃からずっと付き添ってたから」


 西原は「そうですよね」と言いかけて、口をつぐんだ。


 モニターには、さっき死亡確認した人の電子カルテがまだ開いたままだ。

 その隣のタブには、救急外来からの入院依頼の画面。


『心不全疑い SpO2 90%台 呼吸苦あり 入院希望』


 画面の隅で、病床数の表示が数字を一つ増やしている。


「……ベッド、回るな、って」


 西原が小さな声でつぶやいた。


「え?」


「いや……さっき、霊安室に送る準備してるときに、一瞬思っちゃって。

 あ、これで救急の人入れられるな、って」


 自分の言葉に驚いたように、西原はすぐに首を振る。


「最悪ですよね、私。人が亡くれた直後に、そんなこと考えるなんて」


 私は返事に迷わなかった。


「……思うよ、そりゃ」


「え?」


「そう思うの、普通だと思うけど」


 西原が目を丸くする。

 ナースステーションの蛍光灯が、その瞳に白く映っていた。


「だって、そうやって考えないと、次に入ってくる人に間に合わないからね」


「でも……」


「でも、って言いたくなる気持ちは分かるけどさ」


 私はモニターの画面を一つ閉じた。


 さっき死亡確認した人のカルテのタブが消えて、救急の入院依頼だけが残る。


 その文字をひとつひとつ追いながら、自分の胸の中を探る。


 悲しいか、って聞かれたら、悲しくないわけじゃない。

 でも、最初に来るのはやっぱり「空床一」という事実だ。


 それを見てしまう自分が、どこかで嫌いだった。


「あのね、西原」


 私は椅子を少しだけ回して、彼女のほうを向いた。


「人が亡くなったあとに『ベッドが空いた』って考えるの、そんなに悪いことじゃないと思ってる」


「……そう、なんですか」


「だって、それを考えられなかったら、救急の人を受け入れられない」


 救急カートの横で、酸素マスクを当てられながら待たされている患者。

 ストレッチャーの上でじっと天井を見ている人。


 私は何度も見てきた。


「誰か一人の死でベッドが一つ空くから、そのベッドに別の誰かを入れられる。

 それを『回転』って言葉で呼ぶのは、正直どうかと思うけどさ」


 西原が小さく笑う。


「でも、そうやって回していかないと、ここはすぐにパンパンになる。

 廊下にベッドを並べるわけにもいかないしね」


 そう言いながら、二年前の冬のことを思い出していた。


 救急車が一晩に七台来て、そのうち五人がうちの病棟に入った夜。

 ベッドが足りなくて、師長が深夜に他病棟に頭を下げに走り回っていた。


 そのとき「もう無理です」と言って断ったら、その「無理」の向こうで誰がどうなったのか。


 考えないようにしてきたことが、胸の奥で鈍く疼いた。


「……でも」


 西原が、まだ何か言いたそうに口を開く。


「ベッドのこと考えてると、自分が冷たい人間になったみたいで。

 昔は、もっとちゃんと悲しめてたはずなのに」


 私はその言葉に少しだけ笑ってしまった。


「昔って、いつぐらい?」


「新人のころとか。初めて看取ったときは、ナースステーション戻ってからもずっと泣いてて、先輩に『気持ちは分かるけどカルテ書こうか』って言われて。

 あのときは、ちゃんと人の死を『大ごと』として受け止めてた気がするんです」


「今は?」


「今は……さっきみたいに、ベッドの回転とか、救急のこととか、勤務表のこととか。

 そういうのが先に頭に浮かんじゃって。

 慣れすぎたのかなって」


 西原は自分の指先を見つめる。

 消毒液で荒れた皮膚に、ハンドクリームが粉を吹いていた。


「……慣れたんだよ」


 私はゆっくりと言った。


「いい意味でも、悪い意味でもね」


「いい意味でも、ですか?」


「うん。なにもかも毎回初めてで、毎回全部受け止めてたら、たぶん一年持たない。

 人が亡くなるたびに、家族と同じ温度で悲しんでたら、私たち、次の点滴一つも入れられなくなるよ」


 昔、自分が患者側になったときのことを思い出す。


 心臓手術のあと、ICUのベッドで夜通し天井を見ていた。

 同じ部屋の誰かの心電図モニターが鳴って、人が集まり、静かになって、ベッドのカーテンが閉じられる。


 そのたびに「今の人、大丈夫だったかな」と思いながら、自分の胸の中で鳴るカチカチという機械弁の音を数えていた。


 翌朝、そのベッドには別の患者が寝ていた。


 そのとき、私は少しだけホッとした。

 空いたままじゃない、って。


 今ベッドにいる人にも、ちゃんと人手が割かれているって、それがなぜか安心につながったのを覚えている。


「私、手術でこっち側に寝てたことあるんだ」


「えっ」


「そのときも、誰かがいなくなったあと、すぐに別の人が入ってきてさ。

 あぁ、ここは止まらないんだなって、変な安心の仕方をした」


 西原が驚いた顔をする。


「そのときね、隣のベッドに入ってきた人を見て思ったんだよ。

 昨日いなくなった人のベッドが空いたから、この人がここに来られたんだな、って」


 言葉にしながら、自分でも少し驚いていた。


 あのとき感じた感情に、ちゃんと名前を貼ったことがなかったからだ。


「だから、ベッドが空いたことを考えるのは、冷たいだけじゃなくて、次の人のことも同時に考えてるってことなんだと思う」


 西原は黙って聞いている。


「もちろん、それだけでいいとは言わないよ。

 人が亡くなったことに何も感じなくなったら、それはそれで危ない。

 でも『ベッドが空いた』って考える自分を、そこまで殴らなくていいんじゃないかなって」


「……殴ってましたね、完全に」


 西原が苦笑する。


 ナースステーションの中で、プリンターが紙を吐き出す音がした。

 誰かの検査オーダー。誰かの内服変更。


 病棟は、今日もいつものように動いている。


 その日の深夜二時、救急からの入院が一件上がってきた。


 ストレッチャーには、さっきの入院依頼の患者――心不全の七十代男性。

 呼吸は苦しそうだが、意識ははっきりしている。


「ここに移りましょうねー」


 私はチームで声をかけながら、さっきまで空床だったベッドへ患者を移した。

 清拭されたばかりのマットレスに、シーツが皺一つなく敷かれている。


 西原が、ベッドサイドでモニターのリード線をつなぎながら、小さくつぶやく。


「……○○さん、さっそく使わせてもらいますね」


 それが亡くなった患者に向けた言葉なのか、ベッドに向けた言葉なのか、私には分からなかった。


 でも、そうやって小さく心の中で手を合わせられるあたり、西原はまだ全然「慣れすぎ」なんかじゃない、と思った。


「循環器の先生には連絡済んでます。

 バイタル取ったら、また報告しましょう」


「はい」


 西原の返事は、さっきよりも少しだけ落ち着いて聞こえた。


 交代時間になって、私は白衣の上からパーカーを羽織り、ナースステーションを振り返る。


 今日も一日分のカルテと、点滴と、ナースコールと、笑い声と、ため息。


 そのどこかに、さっき空いたベッドと、今埋まったベッドが含まれている。


 エレベーターを待ちながら、私は胸のあたりをそっと押さえた。


 自分の中の機械弁は、相変わらず真面目に動いている。

 その音にずいぶん助けられた夜もあったし、うるさくて眠れなかった夜もあった。


 この病棟には、きっと私と同じように「眠れない夜」を持っている人がたくさんいる。

 患者も、家族も、看護師も、医者も、みんなそれぞれの天井を見上げている。


 どこかに、眠れない人を休ませてくれる、不思議な彼のサロンみたいな場所が本当にあったらいいのに――そんなことを、ふと考える。


 でも私たちは、とりあえずここでやっていくしかない。


 ベッドが空いたことにほっとしてしまう自分も、

 次に入ってくる人のためにシーツをぴんと張る自分も。


 どっちも、まとめて「この病棟の看護師」という仕事の一部だ。


「……まぁ、いっか」


 誰に向けるでもなく、そうつぶやく。


 自分が冷たい人間かどうかなんて、今はどうでもいい。

 ベッドを回すことも、点滴を落とすことも、ナースコールに走ることも。


 全部ひっくるめて、ここで人が生きたり死んだりしているという事実の、ほんの少しの端っこを持たせてもらっているだけだ。


 エレベーターの扉が開き、夜勤明けの職員たちが一斉に乗り込む。


 みんな無言で、顔だけ前を向いている。


 誰かが小さくため息をついた。

 誰かが、眠そうに目をこする。


 その中に、自分と同じように「ベッドが空いた」と思ってしまった誰かがいても、おかしくない。


 それでも明日になれば、また制服を着てここに戻ってくるのだろう。


 それでいいじゃないか、と私は思った。


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